ナショナリズムなんて
自然な愛郷心じゃなく
巧妙な作り物なんだそうだ

ベネディクト・アンダーソン

『増補 想像の共同体』

NTT出版 1997.5

アンダーソン教授によると、「国民国家」というのはひとつの作り物であり、その起源は「国語」の書物が印刷されて広く普及し、ひとつの地域の共通・共有のきずなとされることにはじまる。

また、「国家」の首都におかれた大学に、各地方の神童たちがあつまる。九州出身だろうが北海道出身だろうが、「日本人だから」という共通性でそこにくる。そこで、日本という「国民国家」を想いえがきはじめる。かれらは役人になって、九州出身というアイデンティティを超え、国内をあちこち転勤して歩く。そうした経験によって、さらに「国家」を意識していく。

それはさながら、メッカに集まることで、出身地の差をこえて宗教的紐帯感をもつイスラム教徒の「巡礼」のようなものだという。

つまり、「国民国家」とは自明の、自然な、歴史的に普遍なものなどではなく、「国語」を意識したり「巡礼」したりしているうちに想像でつくられる、一種の虚構なのだと。

ロマノフ朝の「ロシア」、ハプスブルク家の「ドイツ」、「イングランド」のインド、「日本」の台湾・朝鮮など、専制国家や植民地国家の豊富な例をもとに、そうしたナショナリズムの形成過程が検証されていく。

ただ、その一方で、わたしたちは、歴史的に、ある時点・ある地点に生まれる。だから、あるひとつの「国民」になる歴史的宿命を負っており、ネイティブの言語によって、所属する「想像の共同体」が限定される。したがって、わたしたちが所属する「国家」とは、同化することができるいっぽうで先天的に運命づけられたものでもある。

そこに「自然のきずな」を感じさせるから、「国のために死ぬこと」に道義的崇高さも生まれる。

アンダーソン教授が警告するのは、そうした「国民国家」のナショナリズム形成の経験が歴史的に学習されて、ナショナリズムが付けはずし可能な部品(=モジュール)であるかのようになり、ただ国家の利益に奉仕するものだからという理由で革命政権などに利用されることである。

政治において目的を達成するため手段を選ばぬ権謀術数として、ナショナリズムが利用されるところに注意しろというのである。


ベネディクト・アンダーソン教授

東南アジア研究で有名なコーネル大学の政治学・アジア研究の教授。専門は東南アジア研究、とくにインドネシア。1936年、昆明生まれ。