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狩野直禎(かの なおさだ)
『孔子 「論語」の人間学』
学陽書房 1998.11
加地伸行氏によれば、死について答えを用意しているものはすべからく宗教であり、儒教は立派に宗教のうちに数えられるそうである。
わたしたち日本人はよく、自分たちは無宗教であると思いがちだが、お盆に墓参りするなど「儒教徒」的な行動をしている場面が多々ある。
たとえば、厚生省がドナーカードの普及に苦戦をしているのは、「死んでも身体はバラバラに持って行かれたくない」という意識が強いからではないだろうか。もしインド流の仏教徒なら死体に未練などないはずで、鳥に食わせようが川に流そうが気にしない。死体を守るのは、盆などにあの世から帰ってきたときに、不完全な身体では困るという儒教的な発想だ。
そもそもシャカに手を合わせるのが仏教で、祖先崇拝は儒教の教えだ。
そういう意味で、わたしたちの多くは間違いなく「儒教徒」だ。
しかし一方で、戦後の民主主義教育のなかで、儒教は時代に逆行する「前近代的」で「封建的」な道徳倫理として敬遠されてきた。(そういった事情は儒教のふるさと中国ではさらに顕著で、五・四運動や文革中の「批林批孔」キャンペーンなどにみられるように、近代になっていくたびも攻撃の的にされてきた。)
たしかに儒教モラルは家父長主義的であるとか、女性蔑視であるとか、因習に固執するために保守的であるとか、現代になじまない部分も多い。
しかし、清朝を崩壊に追いやった革命の志士たちがバリバリに儒教教育を受けたエリートたちであったことを思い出せば、儒教のうちに自己革新的、あるいは自己浄化作用のような思考が備わっていることが容易に察せられる。
儒教はシャーマニズムから発して、孔子や朱熹らを経て、現代にいたるまで幾度も洗練を受けてきた。そしていまもわたしたちの心に、姿を変えて根づいている。
「信じるものがない」といわれるこの時代。もう一度わたしたちにとってバイブルといえる「論語」に帰ってみることは、いかがだろう。
狩野直禎氏による本書は、最近出版された論語の評釈本のなかで、内容はきわめてオーソドックスであるが、読みやすさでおすすめ。
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