溝口雄三

『方法としての中国』

東京大学出版会 1989

これだけ情報過多で、自由で、束縛のない国に済んでいると、かえってどのように生きていけばいいのか戸惑ってしまいがちだ。最近、ワイドショーのネタは貴乃花やTOSHIなど「洗脳」モノが多いけれど、何となくわかる気がする。なぜって、彼らに限らず、人間というものは、どうしたって確信できる理念や価値観を欲してしまうものだから。

しかし、そういった理念や価値観を受け入れる前に、我々の生きている世界というのはどのようなものか、それをできるだけ正確に認識するということは、人間が生きていくうえでかなり切実な問題といえるだろう。でないと本当にアサッテの方向に行ってしまうからだ。

「方法としての中国」、中国を方法とするということは、世界を目的とすることである。つまり中国を研究することで、世界とはどのようなものかを探るものである。日本も中国もヨーロッパも相対化し、その相対化された多元的な原理の上にもう一層、高次の世界像といったものを創出していくことである。

たとえば中国の近代といえば、日本とくらべて遅々として進まないとか、いやいや近代欠如をバネにして、世界史的に例を見ない全く新しい第三の〈王道〉的近代を自己回生的に実現したのだ(=共産化)とする見方が戦後の認識であったが、相対主義的に見れば、「もともと中国の近代はヨーロッパを越えてもいなければ、取り残されても立ち遅れてもない。それはヨーロッパとも日本とも異なる歴史的に独自の道を、最初からたどったのであるし、今でもそうなのである。」その証拠として氏は明末清初から清末にかけての中国思想家のたどった思想的変遷をくわしく検証してゆく。

自国の文化にどっぷりつかっていると、自国のことを客観的(相対的)に見れなくなるというが、他国のことでさえ、客観的(相対的)に見ていなかったということが『方法としての中国』を読むとよーくわかる。