中国人ビジネスマンの
心のふるさとがここにある。

余 英時

『中国近世の宗教倫理と商人精神』 

平凡社 1991.4

わたしたちの住む世界はどこもかしこも「資本主義」になった。この「資本主義」の起源をさかのぼるとき、わたしたちはウェバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を勉強することになる。世界が「資本主義化」をはじめるとき、キリスト教のなかでもとくにプロテスタントの誕生による、「宗教の世俗化」がおよぼした影響をとりあげたものだ。

それまでキリスト教者は、教会にかよい、神父さんのもとで神の教えを仰々しくたまわっていた。それがプロテスタントになると信者各人が聖書を手にし、直接に神と対峙することにより、教義が信者のうちに内面化されることになる。こうした変化がヨーロッパの「宗教改革」だ。

宗教改革によって、信者の生活に倫理的な色彩がそえられ、生活の原則というものが芽ばえだす。

たとえば思考の集中能力であるとか、労働を義務とするひたむきな態度、経済性という発想、向上心、冷静な克己心、節制、伝統を克服する態度などなど…。

こうした精神(エートス)の誕生が近代資本主義のひとつの発端だと、ウェバーは指摘した(もちろんそれだけじゃないよと、ウェバー自身いってるけれど)。

アジアのわたしたちもこうした流れを欧米諸国からうけついで、西洋的な近代化をはたしてきたといわれてきたわけだが、ここにきて、じゃあ、こうした精神はアジアにはなかったの? と疑問がわく。

そこで注目されたのが12世紀、宋の時代からはじまる中国での「宗教改革」、つまり儒教のバージョンアップである。

古代シャーマニズムに起源をもち、孔子によって体系化された儒教は、この時代に、仏教の一派である新禅宗の影響を受けながら、いっそう精緻な宗教理論へと飛躍をとげる。宋明理学の誕生といわれるものだ。

のちに明・清の時代になって、商業が発展し、また人口増によって科挙合格がむずかしいものとなると、エリート層がビジネス家へ転向しはじめる。そのときこのバージョンアップした儒教マインドをもった商人がちまたに急増していく。

かれらあたらしいタイプの商人たちは、「士(=儒士)にして商、商にして士」となり、商売をたんなる蓄財の手段としてではなく、「世間に入り、人の本分を尽くすことこそが最終的に此岸(この世)を超越できる唯一の道」という、宗教的な実践として商売にはげみ、おどろくほど成功していく。

この「世間に入り、人の本分を尽くすことこそが最終的に此岸(この世)を超越できる唯一の道」なんて、ぱっと聞くぶんにはとっても仏教っぽい。でも宋代以降の儒教には、こうした宗教的信念がたっぷりと含まれていたというところがミソなのだ。

また、宗教的な実践としての営利活動が経済を活性化させたという点がプロテスタントにそっくりなだけでなく、その中味の「精神」が、質素・倹約・勤勉・禁欲などをモットーとしているあたりまでよく似ている。それで、この東洋の「宗教改革」がヨーロッパの「宗教改革」にならべられるワケなのだ。

本書はこうした、宋代以降の、あたらしいタイプの商人の出現にいたる儒教思想の変化と、それへの新禅宗や道教の影響を論じたもので、当時の資料がパッチワーク的にあれこれ登場しながら内容が展開していく。

書名が『中国近世の宗教倫理…』とあるのは、儒教・新禅宗・道教のミックスの関係をいうためであり、メインは新儒教にあるため、儒教ファンにとってはうれしい内容となっている。

歴史学上のひとつの特殊テーマをあつかったものなんだけれど、そこから学びとれるものはおおきい。

エズラ・ヴォーゲル先生は『アジア四小龍』で、あたらしい儒教が優秀な官僚を育てたことが東アジアの工業化に果たした役割を強調していたけれど、官だけでなく、野にあった商人のなかの儒教マインドがアジア経済発展の素地であることがわかる。

アジア経済のメインプレーヤーである華人経営者の思想的源流を知ることや、わたしたち日本人の職業意識をみつめなおすのにもふさわしい一冊じゃないかとおもう。


ところで…

この数年、不景気の原因が構造的なものだとされて、あたらしい産業創出がさけばれ「起業ブーム」である。

大学やアフター5のサラリーマン向けの学校などで「起業コース」が盛んだ。アントレプレナーなんて耳慣れないことばも、いまではあたりまえのように聞くようになった(といっても「起業しよう!」というかけ声のブームであって、起業が数多く成功しているというわけではないが…)。

わたしもそういう学校に通ったことがあるのだけれど、そこで教えてくれるのはせいぜい事業計画の作り方だとか、資金調達の方法ぐらいである。(あと、おせっかいにも組織が発展する過程で発生する問題なんて、とらぬタヌキの心配までしてくれたり、「チャレンジ精神だ!」なんていうお子ちゃまライクなお説教も多い。)

それでいて根本の「商いとはなんなのか」については、さっぱりなのだ。

いちばんむなしく感じたのは、ハーバードでビジネス修士号をとってきたとかいうのが、むこうで習ってきた経営シミュレーション(“ケース”というらしい)をもちだして、あたかもゲーム感覚で楽しげに起業をうんぬんいうものだった。

わたしは本書『中国近世の宗教倫理と商人精神』にあるような、商人の主観世界の充実こそ貴重なもののような気がする。

商人の「精神・エートス」があり、具体的な事業があり、方法としての経営のテクニックがあるとしたら、経営講座が教えてくれるのはうしろふたつであって、「精神」については家族・社会や歴史から学ばなければならない。この部分がいまの「起業ブーム」にみられない気がする。日本の産業の精神性ってそんなものかって、なんだか、とってもむなしくおもえてくる。

かつて堤清二氏は、新入社員が読むべき本として大塚久雄氏の『社会科学における人間』をすすめた。大塚久雄氏は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の邦訳者であり、『社会科学…』もプロテスタンティズムの精神を話し口調でわかりよく解説してくれるものであった。

こうした事業家がいたことは、その時代の日本の産業界の精神性の高さをしめしている気がする。インターネット時代の起業家にもそういった高い精神性があれば、とおもう。