昭和30年代、中国大陸での“放蕩譚”
村松梢風『女経』と田村泰次郎『女拓』を
読み比べてみよう

村松梢風

『女経』

中央公論社 1958

村松梢風『女経』と田村泰次郎『女拓』は、外見からしてよく似ている。ともに棟方志功の手による赤い装幀の綺麗な本である。

こちらが田村泰次郎の『女拓』

両書とも昭和30年代に『中央公論』に連載され、のちに単行本が出された。内容も同じふうで、蕩児を自称する作者が、みずからの生涯に関わった女性について一話につき一人づつ語っていくというものである。もう一つ共通しているのは各著とも中国での体験を語っていることである。

『女経』は昭和32年1月から12回にわたって連載され、『女拓』は昭和39年1月から12回にわたって連載された。彩古書房が出している村松暎著の『色機嫌』によると、『女経』の企画を持ってきたのは中央公論の嶋中鵬二で、連載してみると好評を博し、中央公論社から単行本が出版され、後に中公文庫に入れられた。『女拓』もまた、好評だった村松の『女経』に続くものとして、戦後新宿で鳴らしていた田村に嶋中が目をつけたのだろう。

しかし今この二つの書を並べて読んでみると、同じ放蕩譚でありながら、田村の『女拓』よりも村松の『女経』の方が断然面白く感じてしまうのは何故だろうか。

一つはの問題だろう。だいたい、付き合う女性の格が、村松と田村では違いすぎる。村松が若いときから実家の山を切り崩しながら吉原に通っていたり、金を与えながら美しい女性を囲っていたりするのに対して、田村はそもそも金がないのだから女を買うのも三流どころだし出会う女もどこか不幸だったりする。放蕩というのは金がかかるものだから、そもそも貧乏で、みずからも言っているようにケチだった田村より、金をじゃんじゃん使っていた村松のほうが面白い体験をしてきたのは当然のことだといえるだろう。

そして金の差なのかどうなのか、女性への処し方も二人は違っていて、『女経』で村松は「男というものは女を不幸にするものだと思っている」というひどい思想を告白しているが、だからといって女遊びをやめようとはしない。ただ、付き合った女性に対しては金銭的な援助もするし、自立しようとする女性に対しては仕事の口を紹介するなどして出来るだけの誠意を見せている。一方『女拓』での田村は、哀れな状況下にある女性達に対して、ボッキしながらもしみじみと同情するだけであって、まるで欲望は果たすが金は出さないという、本稿の筆者自身をほうふつさせるいやらしさがある。

しかしそれよりも村松が勝っているのは、時代の常識への突き放しっぷりだ。

面白いことに各著のなかで、両者ともに、人生の取り返しのつかない失策を告白している。『女拓』の最終章で田村は「この章を…冒頭にもって行くべきであったかもしれない。なぜなら、この章のなかで、これからあきらかにする、青春後期における、あるとり返しのつかない、私の重大な失策は、その後の私自身の人間形成に大きく作用し、従って、対世間のみならず、対女性にも、私自身の考え方や、行動を決定的に制約する結果となっているからである。」と告白している。一体どんなことがあったんだろうと思っていたら、なんと、売春宿で拳銃をなくしてしまったということを告白しているのである。作者はこの告白を戦後20年すぎた執筆当時でも非常に恥ずかしく思っているのである。兵隊にとって銃は、「天皇から貸しあたえられた、生命より大切なものであり、軍人の魂である」とはいえ、あまりにもどうでもいいことに悩み苦しんでいるので現在の読み手としてはガックリしてしまう。そして田村が「拳銃」というものを重要視する様は、なんだか、中国に虚勢を張って治めようとする日本軍の姿、または女性に虚勢を張って征服しようとする男権主義者の深層心理を垣間みる思いがしていやな気持ちになるし、そもそも時代を超えた共感ができない。

一方村松の人生の失策は次のようなものである。『女経』の第七話はロンドンのキャフェで隣にいた若い美しいヨーロッパ人女性を口説いたときの話だが、そこで村松は女を芝居に誘ったあと部屋まで連れ込んでおいて、夜遅くになって素直に女を家に帰した。ところが翌日彼は「せっかくあれほど腕によりをかけて、芝居に誘うことにまで成功しておきながら、肝腎なところを、余りにも無分別に、思い切りよく、昨夜ホテルで別れてしまったとは、年甲斐もない失策で、馬鹿正直というか、取り返しのつかぬことをしてしまった」と後悔しているのである。『色機嫌』によれば村松がヨーロッパ旅行をしたのは昭和30年のことだから、村松が65歳のときのはなしである。常識的には素直に家に帰すのが今から考えても年甲斐のある行為であろうに、まさに遊蕩児の面目躍如の感がある。

村松梢風はこのように、いまふうの言葉で言えばブッ飛んだ男だが、常識を越えたところで生きていればこそ、時代の束縛のない鋭い批評眼を持ち得たりする。村松は中国に深く関わっていたし中国に関する文章も多く残しているので(『女経』もそのひとつ)、その意味において、村松を研究することは中国研究者の一つの課題ではないか。