小室直樹ほか

『韓非子の帝王学』

プレジデント社 1998.1

『小説 始皇帝暗殺』に、のちに始皇帝となる「政」が、先祖代々の宿願である天下統一を実現するために、心を鬼にして「皇帝」たるべく変化していく姿が描かれている。

読みおわり、彼のこの変化はなんだったのだろうと、疑問がわいてきた。

その答えを、本書『韓非子の帝王学』が教えてくれた。

つまり、強大な国家を建設して、それを統治していくためには「法」による人間の欲望の制御が必要とされる。それを誰よりも知り、求めていたのが政だったのだ。政の理想は完璧な法治国家の実現であった。

ただしここでいう「法」とは、今日いうところのものではなく、君主が決める「善悪」の基準といった意味である。

さて「法家の思想」を唱えた韓非子は、秦の隣国「韓」の王子であった。

生来のどもりのために思考が深く内省にむかった韓非子は、建て前の倫理観に満足せず、より透徹した人間性の洞察に到る。

いわく「人は利益で動く」。いわく「刑罰を優先させるのが治の第一歩」と。つまり信賞必罰の徹底である。

政は、この理論に傾倒し、魏に韓非子を差し出すことを要求した。韓非子を重臣に得た政は、法治の鬼となり信賞必罰を過酷に実践し、天下統一に成功する。

以来、「法家(ほうか)の思想」は中国に深く根付いていく。

中国の各王朝は表向き儒家を尊び、孔子を聖人として、政治道徳の鑑として崇めてきたが、実際の政治の運営はそれとは別で、申不害、商鞅を経て韓非子において集成された法家の思想を手引きとして行われてきたのではないだろうか。(p.99)

本書を読み、ふと思いついたことがある。

対中投資をおこなう日本企業が多かったなかで、失敗し撤退するケースも多かった。その理由のひとつが、この「法家の思想」の理解不足ではないかということだ。

たとえば、対中投資の際には、経営者はエズラ・ヴォーゲル氏の『アジア四小龍』ぐらいはお読みになるだろう。そこにはアジアの驚異的な経済発展の理由として「儒教精神」があげられている。それを読んで日本人との共通項の多さに安心して、これならいける、ぐらいに思われたとしたら、そこにはおおきな片手落ちが生まれる。

つまり、貢献に対しては十分に報い、怠惰に対しては厳罰で処するルール作りとその徹底、要するに「法」による統治の部分が欠けているからだ。

そもそも欧米の経営学では、人は責任と権限を与えられたときに自発性を発揮して働くという人間像を前提としており、ムチでたたくような労働観を排除しようとする。エズラ・ヴォーゲル氏の『アジア四小龍』が儒家的な部分を見て、法家の思想を見ないのも仕方がない。

しかしそんな西洋的なヒューマニズムでは中国人とは渡り合っていけないのだ。

日本人も元来、打算や利己主義を恥ずべきものとする面が強い。

そのため「法」による統治のベースとなる利己主義的な契約関係ともなると、一歩引いてしまう無垢さがあるような気がする。

このお人好しさのために、中国人を知り尽くした香港企業や台湾企業に、一歩も二歩も、リードを許してしまうような気がしてならない。

中国を理解するためには、韓非子のように、建て前の倫理観に満足しない、よりリアリスティックな人間観を必要とするのだ。