古田元夫

『アジアのナショナリズム』

山川出版社 1996

すべての人間は生まれながらにして平等である。造物主によって誰にもおかされない権利を付与されており、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれる。

人は権利において生まれながらに自由、平等であり、かつつねに権利上の自由と平等を取得せねばならない。

上にあげたのは、アメリカ合衆国独立宣言の中の言葉と、フランス革命の人権と市民権の宣言の一部である。この二つの国民国家がこの様な自由・平等という理念を持ちつつ、他の国の国民に対しては適用されず、差別や搾取の対象としたのはなぜか。

国民国家という新しい共同体が「われわれ自身」のものとして実感されるためには(例えばフランス人が自分をフランスという国の「国民」であると実感されるためには)、排除されるべき他者=「やつら」が必要となるためだと『アジアのナショナリズム』の著者は言う。

つまり「国民国家とは、一面において自由・博愛・平等の共同体であると同時に、他面においては、異質な言語の話者=少数民族、外国人など、『やつら』にたいする差別と排斥の原理をあわせもった、矛盾した存在であった」のだった。

そしてアジアでは…。

「国民国家」や「ナショナリズム」という概念は西洋のものであったが、アジアの諸民族にそれを自覚せしめたのは他者からの差別と抑圧によってであった。つまり他者に「インド人」として差別されることで自らの「インド人」を自覚した。

特に外国での生活経験を持つ孫文・ガンジー・ホーチミンはなおさら、自らの「中国人」・「インド人」・「ベトナム人」を、外国で差別されることで特に強く自覚したのだろう。

そしてかれらの「国民国家」への意思は、戦後におけるアジア各国の「国民国家」の建設(=独立)によって実現したのだ。

しかし残念なことに、戦後におけるアジア各国の独立は、やはり西欧と同じように、「やつら」にたいする差別と排斥の原理をもった、矛盾した存在であったこともあわせて認識しておかなければならないと著者は指摘する。

上に挙げたアジアの3国の間に、相互の戦争が発生したのである。1960年代に発生した中国とインドの国境戦争、1979年の中越戦争である。

「国民国家」や「ナショナリズム」という概念が、響きの良いものに聞こえると同時に、なにか血生臭い感じがするわけがよくわかった。