
天児 慧
『中国・アジア・日本』
ちくま新書、2006.10
この本のタイトルは、『中国・アジア・日本』。
たぶん、これは…
1 中国がアジアで主導的役割を担おうとしはじめた。
2 そこで、日本はどうすべきか? …の略だと思う。
で、2の結論はいうと、日本と中国は覇権を競いあうのではなく、「イニシアティブ共存・分有」をめざせという。
キーワードとしては目あたらしいけど主旨としては常識的で、あまりインパクトはない。
むしろ、1の部分のほうがおもしろい。これまでの日中関係や現在の国際社会における中国のポジショニングが、事実を積みあげて書かれていて、説得的だから。
ただ、この本でちょっと気になるのは、著者が「中国」とか「日本」と呼んでいるのが、ほとんどの場合、政府やその周辺の人々でしかないことだ。
その点でいえば、やや古いタイプの日中関係論だ。
それは、はっきり意識して読んだ方がいいと思う。
この著者は、国際会議・雑誌・新聞上の学者や政治家の発言をウォッチして、それをまとめて「日本は」とか「中国が」とひとくくりにして語っている。
また、著者がどうすべきだとかいっていることも、そのほとんどが、政治家か、外務省の役人かだれかにしゃべっているような内容である。
それはまるで、このセンセイが竹中平蔵か猪口邦子になりたいと思っているのではないかと思わせる筆致である。
要するに、この本の日中関係とは、政府間関係のことで、著者がどんなに熱情こもった書き方をしていても、わたしたち般ピーにはおよそ関わりようのない、別世界の、外交当事者間の内輪の話なわけだ。
たしかに、わたしたちは選挙で政治家を選ぶ立場にあるけれど、政治家はいつも内政手腕で選ばれる。外交姿勢で選ばれたなんてみたことない。対中国の姿勢を買って投票しても、死に票になる。それほど、わたしたちは政府外交と無縁だ。
そのため、この本を読むと、ただ、わたしたち般ピーの及ばぬところで日中関係が進んでいるんだなぁ、ふ〜んという、疎外感ばかり残り、国際関係があいかわらず遠いとお〜いアンタッチャブルなものに思えてしまう。
それがパワーとマネーのゆくえを楽しげに語る国際政治学者の本なんだから、仕方がないといえば仕方がない。
が、しかし、現実の「日本」と「中国」のあいだには、いまや政府間外交以外の、もっと複雑・多層な関係が無数にできあがっている。
とくにこの十数年、おおくの日本人は、多かれ少なかれ、そういう日中関係のすそ野の広がりを、いろいろな立場で身近に実感していると思う。
身近で中国人を見かけたり知り合ったりすることが多くなったとか、知り合いのだれそれさんが仕事で中国に行ったとか、ムスコさんが中国に留学したらしいとか、仕事で扱う商品のうち中国製品比率がどんどんあがってきたとか、スーパーでなにげに買った食品が気づけば中国産品だったとか。
そこらへんが、日米関係とかとちょっとちがうところのような気がする。「アメリカは」「ブッシュ政権は」という話は自然に聞けるけど、「中国は」という話になると、なまじ近くの国で交流が多いもんだから、国単位というより、もっと顔の見える身近な存在との卑近な関係だろうという気がして、しっくりこない。
つまり、国際政治学者の語る日中関係論は、わたしたちの関わりおよばぬところでおこなわれている国家間外交関係をいまだに中心的にあつかっているけれども、もはやそれが日中関係のすべてだとか、中心課題だとかいうわけではなくなっていて、わたしたちにはもっと身近な日中関係があり、そこでの問題や課題は、国際政治学者の関心とはべつにどんどん大きくなっているということ。
だから、わたしたちとしては、国際政治学者の視点はかれらの専門領域のこととして、ひとつの時代背景を知っとこうぐらいのスタンスで拾い読むのがいいだろう。
あらためて考えてみると、国の名前を主語にして語られる国際政治の本が、日米関係(つまり、「日本が〜」「アメリカが〜」という文章の続く本)だとあまり違和感がない。
なのに、それが日中関係の場合(つまり「日本が〜」「中国が〜」の本)だと、妙に違和感がある。
その理由は多分、それだけ日中関係が身近だということかもしれない。
たとえば、わたしたちは、日常的に中国人を街でよく見かけたり、中国人犯罪に不安を駆り立てられている。
そういう相手の話だと、懸案となる問題が政府間で解決すべきことというより、もっと具体的で身近なものに感じる。そんな気がする。
日米関係と日中関係というのは、おなじ国際関係といっても、身近さがちがっていて、関心も異なる対象ということなのかもしれない。