最も嫌われる在日パターン

鄭暎惠 (チョン・ヨンヘ)

『<民が代>斉唱』

岩波書店、2003.8

日本の国歌「君が代」はラブソングである。勇ましい国歌が多いなかで、ラブソングというのはめずらしいのではないだろうか。ただ、そのラブの相手が、むかしは天皇だった。

いまでは「君が代」で天皇を想うひとは少なくなっただろうから、漠然と「日本」を想う曲であって、この本のタイトルのように「民が代」とか「民が世」を謳っていると言っていえなくもない。

といっても、この本の著者が、あの「君が代」は「民が代」だといってるわけではない。

著者の主張は、もっと「民が代」を謳える日本にしよう、つまり、日本に住んでいる者に国籍に関係なく平等に市民権を与えよう、ということである。うつくしい平等観である。

しかし、である。

明治以来の日本の国造りは、領土内にむかしからあった伝統文化を誇りにする気持ちや、郷土愛をもとにして、国内的に統一的な「日本」を形成することですすめられてきた。それはどこの国の近代化にもみられたことだ。

その過程で、日本人は、単一民族的で画一的な自己イメージを高めてきた。しかもそれは、植民地を失った戦後になって、さらに強められもした。

それはよくもわるくも事実であり、そうして育てられたマジョリティの日本人の日本観を性急に変えようとかんがえても、ちょっとむずかしい。

日本という国を多文化的なサラダボールのような国にするには、慎重な一歩一歩で歴史を見直していく作業が必要なのである。実際、多くの知識人はこの作業を地道にこつこつ進めている。

安直に西洋近代思想やそれをもとにした国連の人権思想を「これでもくらえ!」とばかり威勢よくもってきても、そういう理づめはかえって反発のもとになってしまう。

この本の著者が在日のアイデンティティを大事にしたいとかんがえているように、保守的な日本人も自分たちのアイデンティティを大事にしたいと願っているし、この著者が家族を大事にかんがえるように、多くの日本人にだって親や祖先を大事にしたい感情はある。

それに、マジョリティの日本人のなかにも(=在日でなくても)首相の靖国神社参拝をしっくりしないとかんがえているものもいるし、侵略の歴史を痛惜しているものもいる。

それを一概に(それも挑発的な言葉選びで)日本人=犯罪者=抑圧者のように責め立てられれば、かえって反動的に日本人の保守性・排他性を高めてしまうだろう。それが反論しにくい正論であればなおのこと、反感となって沈殿していってしまう。

たとえば、戦後まもないころ戦勝国人としてふるまった朝鮮人を日本人が恐れ、それが徐々に在日差別になっていったこと(本書では無視されているが)を思い出す必要がある。

つまり、この著者のように、日本の過去の国家的犯罪行為をヒステリックに糾弾し、日本人に敵対心をむき出しにし、国籍に背を向け、都合よく市民権だけを主張しては、むしろ解決から遠ざかってしまう。

ご本人とか、正義漢で血気盛んな学生チャンたちはこれを読んで政治的正しさ(PC)に酔えるかもしれないが、大切なのは、そういう一部の人間の自己満足ではなく、全体的な合意形成をどうするかだ。

新しい日本にも、やはり共同体意識や同胞意識、共属意識はある程度必要なものなのだ。

それをどう構想するか、どう醸成するか。

そこのところの努力を、国籍を問わず、多くの知識人が地道に、そしてとてもとても慎重におこなっているということを、この著者にも知ってもらいたいとおもう。

そういうたくさんの地道な努力を台無しにするような敵対心のあおりや、学問を装ったうっぷん晴らしは、もうたくさんなのだ。