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この本については以前にもオススメしたことがある。おもしろい本なので、時々おもいだしたように引っ張り出しては読んでいた。
で、ある時ふとおもったのだけれど…
この西川センセイはなんでこうも執拗に「国家悪」を告発しつづけるんだろう?
『国境の越え方』には、1992年版(筑摩書房)と、2001年の増補版(平凡社)がある。そして、その間に、『地球時代の民族=文化理論』と『国民国家論の射程』というのがある。
それらをならべると、こうなる。
これらを通読しながら、どうしてこのセンセイが「国家悪」を憎み(?)国民国家相対化にこだわるのか考えてみた。
ところでまず、「国民国家」とはなにか。
国民国家(ネイション・ステイト)とは、国境に区切られた一定の領域から成る、主権を備えた国家で、その中に住む人々(ネイション=国民)が国民的一体性の意識(ナショナル・アイデンティティ=国民的アイデンティティ)を共有している国家のことをいう。
(木畑洋一「世界史の構造と国民国家」歴史学研究会編『国民国家を問う』青木書店、5頁)
つまり、領域内に文化的な一体感を備えている主権国家を「国民国家」とよぶわけだ。国境に区切られたなかにひとつの文化がある。つまり、日本という国には日本文化があるというように、国家がひとつの文化の単位だとみる見方である。それを相対化するというのは、はたして日本=日本文化と言っていいのか、冷静に見てみようということか。
はたして日本=日本文化か、なんていうと、なにをいう、あたりまえだ、そこにオレたちゃ誇りがあるんだ、と言い出しそうな人たちがいる。
つまり、ナショナリズムとか、国粋主義というのは、日本=日本文化=オレという発想だ。そして、国民国家をひとつの自信のよるべとしている人たちは、じっさいけっこう多い。中世までの人が神を疑わなかったように、国家という価値を信じている人たちである。
さて、ナショナリズムについては、学者のなかには…
ネーション(国民・民族)とナショナリズムが、ナショナリストたちの自己確信とは裏腹に近代の産物であるということは、社会科学者や歴史家にとっては常識に属することがらである。
(大澤真幸「ネーションとエスニシティ」井上俊ほか編『民族・国家・エスニシティ』岩波書店、1996年、27頁)
と、あっさり言い切ってしまう人もいる。
また、ヘドリー・ブルや田中明彦の新中世主義論 のように、すでに先進国の一部には主権国家システムを超えてネットワークをなすような秩序が生まれているんだという指摘もある。
そういう本を読んでいると、あぁ、国民国家は絶対無二の価値ある枠組みというより、むしろある時代に作られた便宜的なしくみだなとか、しかもそういう冷めた認識はすでに一般化しつつあるんだな、と気づきだす。
でも、一方で、歴史学者のなかにはやっぱり…
国民国家を虚構、想像と考えるのは日々の現実に照らしても無理があるし、危険ですらある。
(松塚俊三「歴史理論」史学会編『史学雑誌 第111編 第5号 2001年の歴史学界 −回顧と展望−』、8頁)
というような慎重な見方をする人もおおい。
それもそうで、たしかに、国内の世論や自民党議員などはあいかわらず保守的である。超大国アメリカは国連を軽視し、単独行動主義をとる。隣国の中国・韓国・北朝鮮などには、いまでもなにかというとナショナリズムを戦わせようとする人たちがおおい。
つまり、現実世界ではつよいナショナリズムを目にすることのほうが圧倒的におおい。わたしたちをとりまく世論や世界秩序は、どうみても、あいかわらず国民国家信仰につよく支えられている。
「国民国家」やそれを信奉するナショナリズム。
たしかにそれは、近代の産物として客観的にながめるには、やや生々しすぎるもののようだ。
だから、そうした、世界に広がる国民国家信仰の状況を改変しようなんて、ほとんどドンキホーテか、マルティン・ルターかだ。
なんだけど。
一方で、国民国家信仰をうたがって、世の中を変えていこうとする人たちのほうも、増えてきている。
たとえば…
近隣国と一緒に歴史教科書のあり方を考えようとしている人たち(歴史学者)
国内の民族差別を問題にする人たち(在日)
外国人労働者受け入れをまじめに考えている人たち(国際社会学者)
国家間の摩擦について考えている人たち(国際政治学者)
で…
西川センセイの場合はどうなんだろう?
まず、戦前世代だから、日本の国民意識が戦争をひきおこしたことについて、体験からくる反省の気持ちがある。
それに、いまもまだ、ナショナリズムが戦争の火種であったり、民族差別の原因だったりすることにも、胸を痛めておられるようである。
でも、西川センセイの場合、それだけではなさそうだ。
どうやら、その性格にも、こだわりの源がありそうだ。
たとえば、こんな箇所がある。
自分を日本共同体に同一化させずに、非国民を貫きながら責任を果たす(あるいは果たさない)狭いわずかな可能性も残されている。
(『国民国家論の射程』、17頁)
国民国家的秩序の側に立つのか、それを嫌って別の秩序を求めようとしているのか、というそれ自体はきわめて単純明快な一つの政治的境界線である。…(中略)… 国民である自分を国家の奴隷と感じるか否かという点では、イデオロギー的と言うよりは感覚的、感性的な境界線である。
(同、33頁)
国粋主義者や伝統主義者は、国家や文化という、自己の外にある基準や権威に自己を従わせることにどうして満足していられるのだろうか、どうしてそれを屈辱とは感じないのであろうか?
(『増補版 国境の越え方』、396-397頁)
こういう文章に出あうと、学問的な態度というより、他律的な生き方にとことん反旗を翻そうとする自由人(ノン・コンフォーミスト)の主張というか、怒りというか生きざまを感じる。
そういうパトスが、「国家悪」の糾弾、「国民国家」相対化の議論に向かっている気がする。
また、そう考えていて、ふと心理学書の一節を思い出した。
人間は、自分が縁を切りたいと思ってもそうできない他者の補完物としてのアイデンティティを負わされているのに気づくとき、罪責感よりはむしろ、羞恥心をひき起こすように思われる。
(R.D.レイン(志貴春彦ほか訳)『自己と他者』みすず書房、1975年、101頁)
ますます、西川センセイの執拗な国民国家相対化の仕事には、その背後に、西川センセイ自身のアイデンティティにまつわるなにかがあるような気がしてきた。
でも、それは、あまり立ち入って考えることでもないような気もしてきたから、この話はここまで。
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