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最近は、「在日」という言葉も昔ほどタブーな感じがなくなったようで、「わたし、在日ですッ」とフツーに口にする友人も増えてきた。
これはこれで、ひとつ、隔世の感がある。韓国の経済成長と民主化、ワールドカップや冬ソナ・ブームを経て、コリア系アイデンティティが隠すべきことではなくなったのだろう。
で、そんな友人たちと話していて気づくのは、かれらの出身が東京であれ大阪であれ福岡であれ、在日のなかに共通して語り伝えられている社会観や歴史観があるということだ。
それは、ひとによって濃淡の差はあるけれど、親類などの差別体験や自身の疎外感をもとにした被害者意識が底流にあることにかわりはない。
在日の社会に語り継がれている被害者意識。
これは、わたしたちが日本社会を考えるとき、のどもとに刺さった小さなホネのように違和感を生みつづけている問題でもある。
被害者意識というと、実際には被害がないのにことさら加害者の罪を責め立てるようなニュアンスがあって、在日に対する差別があったことを認めないようで、不適切かもしれない。
しかし一方で、日本社会を感情的に糾弾する在日の姿を見慣れてきたわたしたちにとって、いつまでもただネガティブに恨みを繰り返されるだけだと、とっさについ「またあの被害者意識か」と反発を感じてしまう。
良心的な者なら、「どうしてもっとポジティブに対話し、サラダ・ボール型日本社会をつくろうとしないのか」といら立つだろう。
悪意の者なら、「なら、半島に帰ればいいじゃないか」と切り捨てようとするだろう。
要するに、聞く側も、もう在日の被害者意識に、さほど共感できなくなっている。そんな気がする。
さて、在日が被害者意識を語る根拠のひとつは、じぶんたちが来たくもなかったのに日本に連れてこられて、帰りたくても帰れなかったのだという「強制連行の神話」だ。
本書で鄭大均センセイが批判するのが、この「神話」の部分だ。
実際に渡日した1世たちには自分たちの意志で来たものが少なくない。にもかかわらず、幼いころに親に連れられ渡日した1.5世といわれる人々や、その子らである2、3世は「神話」を肥大化させて語り伝えているのではないか。鄭センセイは、そう指摘する。
在日社会に広がる常識をうたがうことで、被害者アイデンティティの桎梏から自由になり、コリア系日本人として堂々と生きていく。
本書が提案するのはそういうポジティブな生き方なのであり、それは在日社会のいまの変化を促進するものになるだろう。
この鄭大均センセイの本をこれまで数冊読んでみた。
鄭大均『韓国のイメージ』(中公新書、1995年)
鄭大均『日本(イルボン)のイメージ』(中公新書、1998年)
鄭大均『在日韓国人の終焉』(文芸春秋、2001年)
鄭大均『韓国のナショナリズム』(岩波現代文庫、2003年)
どれもおもしろいのは、たぶん、このセンセイが常套句に流されず、マンネリな言説に安住しないことに執拗にこだわっているからだとおもう。
あくまで、見えるものをあるがままに見ることによって、自明と思われていたことが実はなんらかの権力によって構成されているのを見通すこと。そういう批判的な洞察というのは、わたしたち凡人のできる技ではない。
鄭センセイは、カバーに載っている写真はやさしく穏やかな表情だし、メッセージも共感に満ちているけれど、その批判力はコワイ。
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