| どうやらいま、学問の世界の住人のなかでは、大きな革命が進みつつあるようだ。とてもゆっくり、とても静かに、かもしれないけど。
というのも、ヨーロッパで 500 年以上まえに始まった「近代」という社会のあり方を、根本的に問い直す議論をよく目にするからだ。
それは、戦前にあったような、西洋にない「日本的なもの」をさがす議論でもないし、西洋に対してアジアが対抗するという図式でもない。また、資本主義に的を絞って反旗をひるがえすという種類の議論でもないのだ。
ここでいう「近代」とは…
ホッブズ、ロック、ルソー、スミス、マルクスらに語られ、
新大陸「発見」、名誉革命、合衆国建国、人権宣言を経て、
英、米、仏、独など欧米で育った、
政治思想と、それに付随した世界観である。
日本も明治以来、それをあわてて吸収したし、戦後はアメリカによる占領政策のもとで、急速に取り入れられた。
そんなわけで、いまもわたしたちは「近代」の思考様式の中で生きている。
日本国憲法はもちろんだが、なんと「天皇制」すら明治期に「西洋=近代」的になるために「再発見」された「伝統」だというのだから、おそるべし「近代」である。
本書は、「西洋=近代」の3つの側面、すなわち「市民社会」「世界史」「ナショナリズム」について、その生い立ちを批判的に振り返っている。
その作業は、西川長夫『国境の越え方』にとてもよく似ている。
どこが似ているかといえば…
・1492年を「近代」の始まりとみなす点
・「文明」概念を「ヨーロッパ人の自意識」として捉えている点
・「文明化」は主として征服者のイデオロギーだったとする点
・明治期以降の日本の「近代化」をヨーロッパの模倣とみなす点
・排他的民族主義的な思考をいましめようとする点
・「国民国家」的なものの見方を脱却しようとしている点
・これからは文化的多元性・重層性を認め、多様なアイデンティティから構成される社会を目ざすべきという結論
このように骨子となる主張はとてもよく似ているけれど、おふたりの語り方が異なる。
西川センセイには、人文学者らしい躍動的な奔放さがある。
植村センセイのほうは、社会科学者らしいストイックさがある。
どちらが説得的かは、論理の妥当性というより、読者の好みの問題なのかもしれない。
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