鄭大均センセイは 『在日韓国人の終焉』で、在日は日本国籍を取り、日本の政治に積極的に参加すればいい、「コリア系日本人」としてはっきり政治的立場をとればいいと主張している。
また、そうした主張が若い世代を中心に広がりつつあることは、雑誌でも紹介されている(ニューズウィーク日本版、2003年11月26日号)。
だが、本書の姜尚中センセイは、それとは異なった在日の生き方を示している。
それは、「ある政治的な共同体に自分をまるごと帰属させずに発言していた」エドワード・サイードのような生き方だという。
「つねにどっぷりとインサイダーの中に浸からずに、どこかアウトサイダー的な面を保ち続けることは困難がともなう。しかしそれには『亡命』のような境涯を生きるものにしかわからない歓びがある」
それを承知した生き方である。
鄭大均センセイと姜尚中センセイに共通するのは、在日一世の生き方を重くうけとめながら、海外体験を経たすえに、一世とは異なる生き方があることを模索し見つけ出した点である。
しかし、鄭大均センセイが「ていたいきん」と名乗り、姜尚中センセイが「カンサンジュン」と名乗るところからわかるように、たどりついた結論は異なるものであった。
もちろん、鄭センセイが民族性を過小視しているわけでも、姜センセイが理想的抽象論をかざしているわけでもない。
それにそもそも、どちらがどちらかより正しいなどと「日本人」が気軽に口出しできる話でもない*。
本書で姜センセイは、みずからの生い立ちを語るなかで、あえてマージナルな立場を積極的に選択する理由を明らかにしている。
それは「日本」や「韓国」のふちで生きるという消極的な意味ではもはやない。東北アジアを縦横に見るポジションを獲得するという、積極的な意味でマージナルなのだと。
姜センセイは1950年生まれである。
その半生について読むことは、戦後の日本社会と内政、朝鮮半島の南北分断について、ひとりの在日の視点から学び直すことでもある。
*たとえば、日本政府は国家公務員採用に国籍の制限を付けている(地方自治体には職員採用にあたって国籍条項を撤廃したところはいくつかあるけれど)。姜センセイが国立大学の教授なのは、大学教授というのが、国家公務員採用に関する国籍条項でも例外的な職種だからである。つまり、在日だと、たとえ日本生まれで日本育ちの「永住者」であっても、公務員にはなりにくい(そういう「永住者」が全国に50数万人いる)。じゃぁ、日本の国籍を取ればいいじゃないかというと、かれらには、家族や近親者のなかに日本人を憎んでいるものがいたり、あるいは北朝鮮と関わりがあったりするから、自分の意思だけで国籍を変えるというわけにはなかなかいかない。そのため、有利な仕事か、家族や親類との調和かという選択を迫られることもある。ここにあるのは、ひとつには、受け入れ側の日本社会の問題であり、もうひとつには、在日のなかに存在する日本人観の問題なんだとおもう。それぞれに歴史的な蓄積から生まれた感情の問題で、日本人からすれば「国籍を変えろ」とか「ひねくれた根性を変えろ」といいたくもなるし、在日の側からすれば「日本社会が変われ」「過去を反省しろ」といいたくなるだろう。すぐに立場が対立してしまう。そういうなかで、在日が自分のアイデンティティをどうするかという問題は、「日本人」の立場からウンヌンできることではないとおもう。
それにしても…
社会科学者というのは、ほんとうにうらやましい。じぶんの生い立ちを歴史的な文脈とからめて、書きあらわす能力を持っているからだ。
書きあらわすことで痛みがいえるどころか、しなくてもいいつらさを味わうこともあるかもしれない(じっさい、姜センセイはいくどか泣きながらこれを書いたと書いてある)。
それにしても、内面の苦しみをことばであらわし社会的な背景とともに理解できるのであれば、苦しみの原因がある程度は客観視できて、痛みも少しはまぎれるのではないだろうか。周囲の人のやさしさについても、それがどれほどありがたいものであるか、じぶんのことばでうまく言えたらどんなにすっきりするだろう…
ふつう、わたしたち平凡な庶民は、生い立ちに苦悩や理不尽さを感じていたとしても、それをうまく言いあらわすことができない。せいぜい酒を飲んでグチったり、趣味や仕事に没頭して忘れているしかない。まして思い出の人に伝えられなかった気持ちなど、写真を眺めてボーッとひとり感傷に浸るぐらいのものか。
抱えた問題の種類や深刻さはちがっても、本書には、そういう点で、社会科学者に対するうらやましさや、それを読める心地よさがある… といったら、著者にたしなめられるであろうか。
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