| 2001年9月11日のテロ後、ハンチントンの『文明の衝突』が繰り返しニュースなどで引用された。
ハンチントンの予言通りに、西欧とイスラムという文明間で衝突が起きたんだと。
それに対し、本書の著者クレポン(なんてかわいい名前だろう)は「それでいいのか?」と異論を唱える。そもそもハンチントンの主張は、前提からおかしいのではないかと。
ハンチントンによれば、個々の文化はおたがい排他的なものであり、支配を目指して対立しぶつかりあうもので、両者の摩擦の解決には、最終的には紛争しかない。
それに対し、クレポンは反論する。
そうした発想は、冷戦終結後、あらたな敵をみつけようとする政治文化からなる産物にすぎない。アメリカの覇権を強調するために、かつての共産主義国にかわるあらたな敵として、異文明であるイスラムや中国をもちだしてきている。
しかし、たとえばイスラムが西洋固有の価値と違うからといって、かれらをひとくくりに敵対視することは、むしろ、西欧対イスラムという対立構造をきわだたせ、テロの主張に荷担する結果を招きかねない。あるいは、人種差別と外国人嫌悪の情を起こさせるだけである。そこには暴力が生まれてしまう。
そうではなく、むしろ文化なり文明なりは、そもそも他者との接触によって、たがいに浸透しあったり借用しあったりするなかで変化していくものだととらえなければならない。
わたしたちが戦わなければならないのは、異文明ではなく、そうした世界を敵と友にわけて恐怖を駆り立てようとする政治的発想だ、と。
さて、この訳本には、桑田禮彰センセイと出口雅敏センセイの付論が添えられている。
桑田センセイは、クレポンの発想の源のひとつであるカントの『永遠平和のために』を紹介され、西洋近代思想とのむすびつきのなかでクレポンの平和論を説明してくれている。
つづく出口センセイのほうは、クレポンの主張をより現実的な視点で議論しなおそうとするのだけれど、この付論がじつにおもしろい。
出口センセイによれば…
ハンチントンは文化の独自性や一貫性、閉鎖性や純粋性に着目する「文化本質主義」の立場であり、反対に、クレポンは文化の流動性や可変性、開放性や雑種性に着眼する「反本質主義」であり、両者は対照的である。
しかし、文化も、そしてわたしたち自身も、「文化本質主義」的であることもあれば、「反本質主義」的であることもある。それがホントーのところだ。
だとすれば、わたしたちにとって大切なのは、「文化本質主義」的か「反本質主義」的かを選ぶことではない。
文化について語られる個々の場面において、そこに流れる政治性にわたしたち自身がどこまで自覚的になりうるのかという、いわばメディア・リテラシーのような視角である。
文化が政治経済に対し平和的な作用をもちうるかどうかは、そうしたわたしたち自身の政治性への注意深さによる、というのだ。
クレポンの議論にあわせて出口センセイの議論まで読むとき、ハンチントンの『文明の衝突』を読んで味わった怖さが、じぶんの実践の問題になると同時に、あかるい展望をともなった使命感へと転換される。
ひとつの実践として…
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