| ネットで遊んでいると、ウヨ・サヨの戦いをよく目にする。
まず、ウヨがきっかけをみつけて北朝鮮・韓国人・中国人を罵倒する。それにサヨが常識的に抵抗する。すると、ウヨはサヨを嘲笑的に「在日だ」と言い出す。しかし、サヨが「オレは在日じゃない!」といってしまえば、ウヨの排他主義と同列になってしまうから、サヨは静かに戦線を離脱する。ひとり舞台になったウヨは、朝日新聞批判、創価学会批判まで展開しだし、根拠のない感情的な罵詈雑言の書き込みがつづく。そうして荒れまくるなか、参加者がどんどん去っていく…。
これはネットによくある光景だ。
あのウヨたちの感情的なことばづかいをみていると、まさに「必死だな」という感じが伝わってくるが、あれはなんだろう?
ウヨたちに共通しているのは、日本人であるという自尊心だ。その自尊心を守るために、かれらはそうでない人々への敵意をあちこちでむき出しにする。
そんなウヨたちは、この国から伝統的な価値観による統一感が失われることが心配なようである。そして、統一的な文化が失われることでひとびとの自尊心が損なわれていくと危惧しているようである。
いっぽうのサヨたちは、多様な価値観をみとめあえる自由な社会を理想としており、文化的なマイノリティのハンディキャップを少しでも軽減できればとかんがえる。そして、自国文化を批判的に見る目ももっている。
ウヨたちは、中国や韓国は日本につねに敵意を抱いているから、日本は片時も油断してはならない、それが国際社会の冷徹な現実だと信じている。
サヨたちは、帰属する国家によって対立するのでない、国境を越えた人々の連帯の可能性を信じている。
ウヨは、日本人であるというあたえられた現実を神聖な運命とかんがえ、それに帰順を示すのが常識的だとかんがえる。
サヨは、そういう偶然性によってなりたつものは排除すべきであり、近代国民国家の一体感は虚構だとかんがえる。
ウヨは、世界は序列・競争的な秩序になっており、自国はそのなかで優位を占めるべきだとかんがえる。
サヨは、そういう序列・競争的な見方を国家間あるいは民族間の関係にもちこむ発想こそが、差別の苦しみをうむ元凶だと批判的に見ている。
ウヨの理屈をこねるためには、耳学問やローカルな知識で十分である。
サヨの信念に気づくには、ある程度の教育とか読書とか海外体験とかの、努力や環境や機会などが必要だったりする。その差がウヨの自尊心をきずつけるため、感情的な反応をひきおこしもする。案外、ウヨがホントにまもろうとしているものは、「日本人としての自尊心」などではなく、ここいらあたりにありそうな気もする。
ウヨ・サヨの意見のどちらに魅了されるかは、生い立ちや周囲の人々の影響も大きそうだ。たとえば、小泉純一郎のような世襲議員ならウヨに親近感をもつだろうし、国を転々として育ったような人なら、サヨのようにかんがえやすいかもしれない。
現実には、ウヨっぽい人にも留学生の面倒をよくみる人がいるし、サヨっぽくてもワールドカップに萌えてしまう人がいる。国民意識をどれだけ自尊心のもとにしているのかは、人によってまちまちだし、自覚するのすらむずかしい。
本書はサヨの立場、すなわちリベラリズムの立場から、現代のリベラリズム内部の問題点を理論的にあきらかにしようと試みている。
リベラルであろうとするのはなにを求めてのことなのか。その起源はどこにあるのか。現在までの議論のどこに問題が潜んでいるのか。
そうした議論をとおして、国とはなにか、市民とはだれか、自由とはなにか… いや、国とはどうあらねばならないのか、市民とはどうあらねばならないのか、自由とはなにを意味するべきなのかが議論されている。
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