「在日」から
コリアン・ジャパニーズ

鄭 大均
(てい たいきん)

『在日韓国人の終焉』

文芸春秋(文春新書)、2001.04

わたしたちはだれでも、自分がなに人であるのか、どこの国の人間であるのかを、アイデンティティの貴重なよりどころとしている。

しかし、在日の人たちにとって、それは複雑な問題を含んでいる。

「どこの国」という場合、なにをさすのか。国籍か、生まれた場所か、そだって教育をうけたところか。

いまや在日の人たちの多くは、日本生まれ、日本育ちだ。しかし、国籍は韓国であったりする。

生い立ちからいって、文化的には韓国人というより日本人といえるが、しかし、国籍は日本ではない。

文化的には日本人といったが、その場合も、「日本人」の意味するものによる。冠婚葬祭や食事、名前など、民族としての「日本人」という意味でいうなら、やはり「日本人」とはいえないかもしれない。

いや、そもそも、日本に生まれたからといって、戦争被害者の「朝鮮人」が、どうして憎い「日本人」にならなければならないのか? それは同胞への裏切りになるだろう。

それに、実際に日本国籍を取ろうとして、入国管理局の担当者に横柄な態度で、名前を日本式にしろと言われる屈辱だって耐えられない。(岡野八代『シティズンシップの政治学』現代書館、2003年、56-57頁、コラム「日本国籍取得の理不尽」参照)

だから、朝鮮民族の誇りとして「日本人」になどならない… という考えもある。

しかも、自分がなに人なのか、これはじぶんだけの問題ではない。家族との関係にもかかわってくる。けっして自分の意志だけで決められるものでもない。

それに、じゃあ、じぶんで日本人だといってみたところで、はたしてまわりがそう見るのか? あるいは逆に、じぶんは韓国人だといったとき、韓国に住む韓国人はそうおもうのか?

こうなると、問題はじつに閉塞的状況だ。

こうした在日の人たちの、国家とアイデンティティの問題については、在日の人たちのあいだに合意があるわけではない。

映画『GO』に描かれたように、世代間の差もあるだろう。

金城一紀『GO』講談社、2001.1
(第123回直木賞受賞)
映画『GO』(2001年作品)/製作:『GO』製作委員会/監督:行定勲/脚本:宮藤官九郎/出演:窪塚洋介、柴咲コウ、大竹しのぶ、山崎努

鄭大均センセイの立場は、明快だ。

在日は日本のフル・メンバーになればいい。国籍をとり、政治に参加すればいい。日本に住むということを選択した以上は、韓国との関係を清算するぐらいの自問を自らに課すべきではないか。「コリア系日本人」が多くなれば、日本社会は多文化化・多民族化が進む。また、在日自身も「ハンディキャップゆえに同情される人間」や「特権ゆえにねたまれる人間」でなく暮らしていける… と、おっしゃる。

こうした立場は、在日の人たちに支持を得られるものなのだろうか。むつかしいのじゃないだろうか…

そう考えていたとき目に付いたのが2003年11月26日号の日本版ニューズウィークだった。そこでは、鄭センセイのような立場が、実際にも着実に広がりつつあるものであることを伝えていた。

ニューズウィーク日本版、2003.11.26

ニュー在日は帰化したり日本人と結婚しても民族名を維持し、ハングルを学び、消えゆく在日文化をよみがえらせようとする。自分のルーツには誇りをもつ柔軟なニュー在日は、親の世代のように国籍や血筋にとらわれない。「単一民族国家」という日本のこだわりをかえていく…(20頁)

さてさて。

そうなってくると…

オールド「日本人」はどうしたらいいのか。

日本に住む「わたしたち」は、これからの「日本」社会をどう考えたらいいのか。

それは…

…にヒントが書かれている。


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