社会主義と民衆のカンケイ
姜 克實
ジャン・クーシー

『現代中国を見る眼』

丸善ライブラリー、1997.03

大学の講義なんかで中国について勉強を始めてしまうと、やたら大躍進だの文革だの天安門事件だのといった、激しくドラマチックな事件ばかりに目がいってしまう。

しかも、そこに出てくる中国人といえば、毛沢東だの江青だの、政権争いのために生まれてきたような人ばかり。

じゃあ、大躍進や文革なんかが毛沢東のせいだけで起きたのかというと、もちろんそうじゃない。

そこには権力欲や支配欲というよりも、むしろ、ちょっとした分け前にあずかりたいだけとか、日ごろの私怨を晴らしたいだけとかいう、ふつうの人々がいた。

ふつうの、そう、ぼくらとおなじ、私利がなければ怠惰になり、多勢を笠に着れば冷酷になれる、そんな一般ピープルが加勢し盛りあげた結果、中国は波瀾の歴史をたどってしまった。

たとえば、共産党の支配を支えたのは共産党に土地をもらって喜んだ農民であったし、知識人を「反革命分子」として暴力的につるしあげたのは、それこそ社会主義社会の正義だとうそぶいて日ごろのうっぷんを晴らそうとした民衆だった。

230ページほどの本書のうち、200ページは、そうした民衆のあり方を同情的に、そして批判的に描きだす。

残りの30ページで、著者は、そうした自己中心的で残酷な民衆が生まれる原因は社会主義システムにあると、熱っぽく主張する。

いわく…

社会主義システムでは、「依頼心」と「平均意識」が根強くひろがり、意欲を失い「惰性」が育つ。また、「公」への献身精神を唱えすぎるために、健全な個人主義がはぐくまれず、極端な利己主義に向かう。その一方で政治においては、民衆の主体性を犠牲にして、中央集権制と特権的指導者による終身支配がおこなわれる。

また、いわく…

たしかに、社会主義には理想としてすぐれたところが多い。しかし、人びとが社会主義を求め「公」や「国家」のために献身しようとしたのは、歴史上においていえば、特殊な「非常時」であった。むしろ、「私」を追求する資本主義システムのほうが人間の本能に近い。

このような見地から、著者は、現在の中国には未来があるとみる。それは、中国がいま社会主義の看板を掲げながら、資本主義の方法を実践しているからである。

そして、長年の社会主義システムが育てあげた「依頼心」と「平均意識」を自覚し、自立的で良識のある人間を育てなければならないと結んでいる。

そうした議論のあいだ、著者のまなざしは一貫して一般の民衆に注がれている。

社会主義イデオロギーを論じながらも、制度や為政者に罪をかずけるばかりではなく、民衆の愚かさや醜さにも目をむけ、民意の健全な育成に期待している。