桜   舞

 桜、さくら、サクラ。
 視界の全てをその色に染め、桜の花弁が舞う。ちらちらと、ちらちらと、人の耳に届くことの無い音を立てながら。桜は舞う。………ただ、舞い降りる。
 これほど美しいとは思ってもみなかったと、彼は溜息をついた。
 怖いくらい、向ける視線の全てが桜色に染まる。その花の一輪一輪は、さして大きくも艶やかでもないのに、淡いその花弁が重なり合うことでこれほどまでに美しい。その散る姿は、舞うが如く。決して輝き光るような物ではないのに、ぞっとするほど雅で、悲しいほど艶やかに舞う。

まるで雨のように降ってくるサクラ色の花弁。
空も大地もサクラ色に霞んで、風が吹く度に舞うようで踊るようで、夢のように綺麗だった。
………恥ずかしい話だけど、あたしはその桜吹雪の中で泣いていたんだ。
そう、あまりに綺麗で。涙が止まらなかった
んだ。

 あの人が語った言葉が思い出される。そう、確かに美しい。これまで彼が目にしてきたものの中でも、最高の部類に間違いない。もし、彼がその時のあの人のように幼かったらな、きっと涙を止めることはできなかったろう。
 一歩、踏み出す。彼の足を受け止める大地も、また桜に染まっている。そして、その桜色の海を割るように立つ、その幹。
 舞う桜華の間を縫うように、ゆっくりと歩を進める。彼を迎えるかのように、彼を誘うかのように、幹は続く。やがて現れた、一際大きな桜。大樹と呼んで差し障りのない、見事なまでの枝振りと天まで届くようなその姿。
 ………これだ、と彼は足を止めた。根拠はない。ただ、そう感じた。この桜の大樹なのだと。かすかに震える手で、幹に触れる。桜花が散り、彼の周りを舞う。ちらちらと、ちらちらと、彼の耳に届かない音を立てて。それは、まるで再会を祝するメロディーのように。


本当は桜の花って白いんだって。
それがどうしてあんな綺麗なサクラ色をしてるか、知ってるかい?
それはね、根本に死体が眠っているからなんだって。
その死体から血も肉も、魂すら吸い取って、桜は残酷なほど美しいんだ。

 この大樹こそ、あの人だ。あの人の眠る、桜だ。………そう、思った。厳密に言えば、あの人がこの桜の元で眠っているはずがない。それでも、この華桜こそが、あの人だと。この散り舞う桜花の美しさこそ、あの人の魂の色に間違いない。この、サクラ色こそ。
「また………会えましたね」
 ポツリと、彼は零す。その溢れそうな想いの欠片を。その僅かな言葉に答えるように、桜花は一層に舞う。ただ、舞う。舞い続ける。
 風が吹いた。さらに艶やかに散り舞い踊る、その桜の花弁に誘われるように振り向いたその先に、彼女がいた。………今の彼にとって誰よりも愛しい、彼女が。日本人とは違うその髪と瞳の色は、桜色に染まったこの世界の中で、鮮やかに輝く。こんなにも美しかったのかと、彼が驚くほどに。
 何故? ………と、彼女が問う。何故、この桜の地に呼び出したのかと。どんな話があるのか、と。
「どうしても、聞いて欲しいことがあるんだ」
 彼は答える。その瞳に幾ばくかの悲しみをたたえて。そう、これから永い永い物語を語らなくてはならない。辛く苦しい想いの方が多いくせに、決して忘れることのできない、忘れてはならない、彼の物語。
 ゆっくりと腰を下ろし、大樹に背を預ける彼。天を見上げれば、大樹の茂らせる華々の間から、柔らかな陽光。
「覚えているかな? ………忘れていてもかまわないか」
 そっと、手を差し伸べる。最愛の人に。
「君とこうしてここに来ることを、僕はあの人に誓ったんだ」
 差し出された手を取り、彼女は彼の傍らに寄り添う。触れる肌の温もりが、寄せられた肩に掛かるその重みが、愛しくてたまらない。涙が零れそうになるくらい。
「あの人は病院で知り合った人で………優しくて、暖かくて………桜が好きだと言っていた」
 肩を抱き寄せながら、一言一言をかみ締めるように紡ぎ出す。
「いつだって明るくて………僕はからかわれてばかりだった。それでもよかった………あの人に比べたら、僕は子供だったから」
 目を閉じれば、今でも浮かんでくる。微笑みと、差し出された右手。まるで一枚の絵画のように。想い出というセピアのフィルターが掛かって霞んでしまったけど、きっと一生忘れられない。
「僕の婚約者だって自称していたけど、何処まで本気だったのかな?」
 婚約者。少し照れながら、口にする彼。彼女は何も言わない。ただ黙ったまま、肩に回された彼の手のひらに己がそれを重ねた。薬指が木漏れ日を受けて光を放つ。
「僕をちゃん付けで呼んで………僕は、僕はあの人に甘えていた。そして、約束したんだ。………何時かきっと、って」
 彼は彼女を見つめる。………約束。いつか桜の咲く頃に、愛しい人と共に。声にならない、彼の想い。今、傍らにいる人が、彼女であることが嬉しい。彼女であることを誇りに思う。世界で一番、愛しているから。
 彼女が問う。彼が大切に想いながら、失ってしまった人の名を。あの時、確かに彼を支え導いていた人の名を。
「あの人の名は………」
 風が、吹いた。………桜色に霞む風が。地に落ちた桜花を巻き上げ、枝に茂る桜花を散らす。ちらちらと、ちらちらと。ちらちらと、ちらちらと、人の耳に決して届かない旋律を奏でながら。
 彼は、物語を綴る。サクラ色の物語を。それは、桜花の舞う音のない旋律に乗り、遠く果てしなく、遥か彼方へと吸い込まれていった。

桜  舞

BGM:春よ、来い   
B Y:松任谷由美   

後 書

この後に及んで、後書もないものですが(笑)
この作品は、本当に自己満足のためだけに書いたものです。
「いつか咲くサクラの旋律」本編が、未読か既読かにより、プロローグにも、エピローグにもなると言う(爆)
我ながら、あまりのいい加減さに笑いが止まりません。

シンジの隣の女性が誰なのか、それは水晶にも分かりません。
紅い瞳の彼女かも知れないし、蒼い瞳の彼女かも知れないし。

………全然別の女性かもね。