い つ か 咲 く サ ク ラ の 旋 律

八章
「亡く………なった?」
「ああ、残念だがね」
 言葉はわかる。理解できる。………でも、意味がわからない。理解できない。理解したくない!
「………どうして………ですか」
 ふとこぼれた呟き。それが急速に疑問になる。
「どうしてですか! ………この前は、あんなに元気そうだったのに?」
「………彼女の右目のことを知っているかね?」
 右目? ………そう、会ったときから包帯の下で、もう二度と光を映さないと聞いた。
「………はい」
「彼女の眼は、この街に初めて第一種非常宣言がなされた日、ガラスの破片によって光を失った」
 この街に初めて第一種非常宣言がなされた日………僕が初めてエヴァに乗った日。
「爆風によって刃となった微細なガラス粉は彼女の右目を貫き、脳にまで達していた。………現在の医療の全てを使っても、その摘出は………不可能だった」
 爆風? ………脳に達した? ………爆発? 使徒の? ………まさか!
「ガラス粉は脳の内部で徐々に彼女の運動機能を麻痺させ………さながら悪性の脳腫瘍のように………そして」
「うそだ………」
「………残念ながら、事実なんだよ」
「うそだ………だって、だってあんなに元気で、明るくて!」
 強くて、優しくて。まるで、まるでそんな素振りなんかなかった!
「………彼女は、このことを………知っていたんだ」
「知っていた………」
 ………知っていた? 自分が死ぬことを? ………だって約束した。退院したらどこかへ遊びに行こうって。一緒に桜を見に行こうって! それなのに!
 頭の中で、様々な単語がグルグル回る。………ガラス粉………爆風………包帯の下の右目………脳腫瘍………死………爆発………第一種非常宣言………大きな顔………エヴァ………使徒………戦い………痛み………恐怖………閃光………緑の瞳………自爆………死………?
 そうか………僕が、他の誰でもない、僕が殺したんだ。あの人を………トウジの妹さんを傷つけたように、僕が殺したんだ。
 ………僕がこの手で殺したんだ!


 何時だったか、レイを送っていった時に見つけた小さな公園。再開発と使徒との戦闘によって受けた破損の修復とに追われ、誰からも見捨てられたそんな小さな汚れた公園にシンジは来ていた。
 独りになりたかった。………どうすればいいかわからない。自分の眼で、墓まで見てきたというのに、まだ実感がわかない。………信じたくない。本音はそこなのかも知れない。まだ、信じられない。………死、と言う物が理解できない。理解………したくない。
 錆びついて汚れきった小さなブランコ。シンジの体重を受けただけで小さく歪んだ音を立てる。小さく………小さく、擦れるような音を立てる。
 右手を見る。街灯の薄明かりは、少年の細い右手に不思議な影を落とす。その手を開く、握る。ゆっくりと、何かを確かめるように。………だが、握った拳は何も掴んではいない。何も………掴んではいない。
 アスカ………怒らせてしまった。心配をかけるだけでなく、怒らせてしまった。………どうして怒っているのかわからないけど。怒っているアスカは、あまり好きじゃない。それでも、いつものアスカの怒った顔は綺麗だった。………今日は違った。怒ってるのに………何処か、寂しそうで、悲しそうで。どうしてあんな顔をしていたんだろう? ………わからない。この世界はわからないことだらけだ。どうして、もっとわかりやすい形をしていないんだろう。
 ミサトさんも気を使ってるんだろうな。こんな風に時間をつぶして帰るのが遅くなれば、もっと心配させてしまう。………それはわかっているんだけど、もう少し………もう少し独りでいたい。今のままでは、また心配をかけてしまう。もう少し、せめていつもと同じように笑えるようにならないと、心配をかけてしまうから。
 歪んだ愛情。家族なら………愛している家族になら心配をかけることをこれ程までに恐れはしない。むしろ、家族だからこそ見せることのできる姿があるはずだ。しかし、シンジはそれをしようとしない。………愚かなほどに優しいから、どれ程辛くても耐えようとする。大切な家族のために。………ようやく手に入れた、愛情に飢え、感情を殺して生きてきた少年が、ようやく手に入れた、何よりも大切な家族。だから、嫌われたくない、心配をかけて嫌われたくないと願う。………少年の愛情が歪んでしまうのは当然なのかも知れない。
 恐れている。ようやく手に入れた、宝愛の人を失うことが、何よりも恐い。そして少年は失ってしまった。………それも自らの手で。決して少年のせいではない。少年が望んだ訳ではない。その手で殺めた訳ではない。少年のせいなどではないのだ。
 それでもシンジは自らを責め続ける。自らの咎だと、責め続ける。愚かなほどに、ただ一途に。本当はシンジにもわかっている。死は………死でしかない。どれ程拒もうとも、認めたく、信じたくなくとも変えることは叶わない。絶対に。………それはわかっている。だからこそ、自らが許せない。大切な人を護れず、死なせてしまった自分が。
 そしてわからない。どうして………どうして自身の死を知りながら、あの人は微笑むことができたのか。少年が死を実感したとき、醜く取り乱したというのに。忘れられない。何処までも澄みきったあの微笑みが。
「わからないんです………僕には………」
 想いが呟きになる。………答えは返らない。それが、シンジをさらに孤独に追いやる。望んで独りでいるというのに、孤独が辛い。自分はこれほどまでに身勝手な人間だったかと、さらにシンジは自身を責める。
 誰が救えるのだろう? ………この繊細で、優しくて、そして愚かな少年を。誰に救うことができるのだろう。ただ………ため息だけが落ちた。その時。
 ふと、何かを感じた。シンジが顔を上げるとそこには、レイがいた。無機質で冷たい街灯の薄明かりの中から、まるで幻のように………レイがたたずんでいた。


「最近さ、セミの声とかそう言うの、前と変わってきてるよね」
「ええ………生態系が元に戻ってきているんだって、ミサトさんが言ってました」
「へえ………それじゃ、また春は来るのかな?」
「春ですか?」
「そうさ、生態系が回復してきているってことは気候だって回復してきているってことだろ? ………だったら」
「まぁ、そう………なんでしょうか?」
「そうだよ! 永遠の夏なんて、もううんざりさ。………きっとまた、世界に季節が巡るようになるんだ」
「巡る………季節………」
 生まれたときから、世界は夏のままだった。春も、秋も、冬も話や映像の中だけのものだった。………あなたは違うんでしたね。おぼろげかも知れないけど、季節の記憶を持っているんでしたね。
「五年後かも知れないし、十年後かも知れない。もしかしたら百年先かも知れないけど、いつかまた、春はやって来るんだね」
「………はい」
 うれしそうに………本当にうれしそうに話すあなたを見ていると、僕も春がまちどうしくなってきた。
「春が………いつか春がやってきたら、色々な花が咲くんだろうな。もう、ほとんど憶えていないけど、子供の頃に見た、あの、桜も………」
「きっと………咲きますよ」
「そうだね………いつか春が巡るときに………きっと」


「綾波………」
 シンジの呟きを耳にして、目の前の少年が幻でないと知った。だから側に歩み寄る。もっと近くにいたいから、ずっと側にいたいから。
 自分の呟きに答えるようにレイが近づいてくる。幻じゃない。
「………何をしてるの」
 目の前に立つレイが消えそうな声で問う。
「それは………あ、綾波こそどうしてこんな所に?」
「わからないわ………」
 それきり、レイは何も言わない。ただシンジを見つめ続ける。何かも見すかすようなその視線が、今のシンジには辛い。だから、俯いて目をそらした。
 聞きたいことがあったはずだ。会いたかった、側にいたかったはずだ。それなのに、いざシンジを前にすると何も言葉が出ない。自分の方を見ようとしない、俯いているその姿が、辛い。だから、もう一度言おうと思った。昼間、学校で言えなかった言葉を。
「………何を………何がそんなに苦しいの、碇君?」
「綾波?」
 シンジが驚きに顔を上げる。レイがこんな言葉をかけてくるなど、考えもしなかったから。そして見てしまった。レイの瞳に宿る、辛く悲しい光を。
「………死んだんだ………」
 言葉が口をついて出た。知らぬ間に、全てを話そうとしていた。レイの瞳を見てしまったから。
「病院で知り合った人で………優しくて、暖かくて………桜が好きだと言っていた」
「………………」
「いつだって明るくて………僕はからかわれてばかりだった。それでもよかった………あの人に比べたら、僕は子供だったから」
「そう」
「それなのに………死んで………死んでしまった」
 血を吐くより苦しそうに、シンジは言葉を紡ぐ。レイは、ただうなずく。
「僕が殺したんだ!」
 シンジの叫び。それでもレイはただ疑問を口にするだけ。
「………何故?」
「初めて………エヴァに乗った、あの戦闘が原因であの人は死んだんだ! ………僕が………僕が殺してしまったんだ………」
 何も言えなかった。シンジの苦しみがこれほどの物などと想像もつかなかった。ただ、間違っていることだけがわかった。
「………僕が………殺したんだ………護り………たかったのに………」
 違う。それは違う。シンジのせいではない。そう言いたかった。………声さえ出れば。あの時、シンジが戦わなければ………自分が初号機に乗っていたらあの使徒には勝てなかった。それはすなわち、人類の滅亡を意味する。………あの戦闘でどれほどの犠牲者が出たのだとしても、それはシンジのせいではない。もう少し上手くやれたはずだ、そうすれば犠牲者も少なかったはずだなど、自惚れでしかない。それでも、シンジは苦しんでいる。………それがこの少年らしいとレイは思う。………だから。
「………僕が………」
「それは違うわ………」
「綾波………」
「………あなたのせいじゃない………碇君の責任じゃないわ」
 言葉が………心に染みた。真っ直ぐにレイの瞳を見る。紅い瞳が映す物は………偽りのない、真実。
「だけど………僕が………」
 力無く繰り返した言葉は、レイの言葉にかき消された。
「………あなたのせいじゃないわ」
 感情を感じさせない、無機質な声。だからこそ、その言葉が紛れもない真実だと感じることができる。レイは静かに、しかしきっぱりと繰り返す。
「あなたのせいじゃないの………」
 ………その言葉が欲しかった。同情でも、慰めでもなく………許し。自らの後悔で自らを縛る、罪の鎖。それを断ち切る許しが欲しかった。哀れみや、気遣いでなく、欲しかったのは………真実の許し。
「あ………やなみ………」
 涙が………こぼれた。凍り付いた心に染みた声が、少年にようやく泣くことを思い出させた。俯いて涙をこぼすシンジの頬に、暖かい何かが触れた。暖かい………レイの掌。
 シンジがこぼした涙を、綺麗だと思った。胸が痛くなった。どうしていいかわからないから、触れてみた。………触れてみたかった。自分には決して流せない物だから。そして、触れてみて驚いた。その、暖かさに。………あの時、自分のために流されたあの涙も、こんなに暖かかったのだろうか?
「………あや………なみぃ………」
 頬に触れている掌に、自身の手を添える。頬と、添えた手に感じる、確かな温もり。生きている………証。生命の証。………許してくれる証。失いたくない、確かな物。
 ようやく、理解できた。死とは………この温もりを失うことだと。もう二度と、そして………永遠に。何処までも無慈悲で、平等な法則。それが「死」だと………ようやく、理解できた。
「綾波っ………僕は………僕は………」
 君を失いたくない。この温もりを護りたい。
「死が恐い………死にたくない………」
 この温もりを感じることができなくなることが、何より恐い。………そう、君を………死なせたくない。護りたい!
「………あなたは、死なないわ。………私が、護るから」
 精いっぱいの想いを込めて、少女は誓いを口にする。それは、命令でも、義務でもない。少女が綾波レイであるための、大切な誓い。
「綾波………綾波………綾波ぃ………」
 それ以外の言葉を失ったかのように、シンジはレイの名を呼ぶ。名を呼ばれる度に、レイは小さくうなずく。その無言の優しさが、うれしかった。
「………あなたは………私が護るから………」
 小さな、自らに言い聞かせるかのような呟き。


「泣きたいときは泣いたっていいんだよ。………笑う角には福来るって言うけどさ、ホントに辛いときまで笑ってることないよ。大声で泣いちゃえばいいのさ。………泣いて泣いて、泣き明かして、辛いことも悲しいことも、全部流しちゃえばいいのさ。………君は忘れているみたいだから、言ってあげるよ。君はまだ、十四なんだよ。………泣いてごらん。君は………決して独りじゃないんだからさ」


 声が………聞こえた気がした。聞こえるはずのない声が。………確かに。
「あやな………みぃ………ぅぅ、ぅあ、あああああああああああ!」
 シンジは泣いた。声を上げて、幼子のように。恥も、外聞も………見栄も、気遣いもなく、嫌われるのではないかという恐れすら感じずに………ただ、泣き続ける。
 レイは見守り続ける。自分の目の前で泣き崩れるシンジを。………その感情のままに、偽ること無い姿を。何故か胸に暖かい気持ちを抱きながら。
「ぁああああ………あああああああぁあぁ!」
 泣き続けるシンジの声だけが、小さな公園を満たし、闇に消えた。

後 書

ヤヨイ「こんばんわ! 後書進行の茅野ヤヨイと」
ユ カ「同じく堂島ユカです」
ヤヨイ「………あれ? 水晶がないわね、どこやった?」
ユ カ「今回は最初から逃げたみたいだよ」
ヤヨイ「何ぃ? ………あいつめぇ!」
ユ カ「無理ないよ。だってヤヨイちゃん、前回の後書で恐いこと言ってるもん。
    いくら水晶だってマゾじゃないんだから、逃げるよ」
ヤヨイ「ちっ、根性のない」
ユ カ「そーゆー問題かなぁ?」
ヤヨイ「ま・とにかくだ。『謎の婚約者』さんの死因が今回明らかになっちゃたけど、
    あれ、何処まで信じて良いんだろ?」
ユ カ「えっと、ウソじゃないから信じて良いと思うけど?」
ヤヨイ「そうじゃなくて、死因の医学的理屈ってやつだよ」
ユ カ「………それはつっこむだけ無駄だよ、ヤヨイちゃん。水晶の医学的知識なんて、
    『すり傷は唾つけときゃOK!』レベルだから」
ヤヨイ「………情けない」
ユ カ「仕様がないよ。………なんのへんてつもない(反対意見多数)の
    ぜんりょうなるいっぱんしみん(国会閑散並反対意見あり)………の水晶だもん」
ヤヨイ「ユカ………あんた、台詞が棒読み………」
ユ カ「うん、言ってて口が曲がるかと思った」
ヤヨイ「………だいたいさ、このSS、シリアスを目指してるって言ってたけど、一番書きたかったシーンが碇君と綾波さんの2ショットだからな」
ユ カ「ヤヨイちゃんにとっては、そっちの方がいいんじゃない?」
ヤヨイ「それもそうか………ラッキーかな?」
ユ カ「このまま、なし崩し的にラブ米になりそうだしね」
ヤヨイ「うんうん、それでいいのだ」
ユ カ「………あ、そうだ。水晶からお手紙預かってたんだ」
ヤヨイ「? ………どれどれ?」
ユ カ「えっとね………『このSSを読んでくださっている方にお聞きしたいことがあります』」
ヤヨイ「『この話の中心にいて未だ謎となっている「彼女」の名前ですが、作中で公開するかどうか、悩んでいます』」
ユ カ「『そこで、皆さんのご意見を伺いたいのです』」
ヤヨイ「『もしよろしかったら、レスにて公開に賛成か反対か、できれば理由付きで仰っていただけないでしょうか』………なるほど」
ユ カ「悩んでるみたいだね」
ヤヨイ「水晶個人としては『彼女』の名前、結構気に入ってるみたいだしなぁ」
ユ カ「でも………何処までも他力本願な奴ね」
ヤヨイ「豊泰の皆様のご厚意に甘えちゃって………仕様がない奴」
ヤ&ユ「皆様、お手数でしょうが、よろしくお願いします」
ユ カ「もちろん、強制力など欠片たりともありませんので、本当にお気が向いたらで構いません」
ヤ&ユ「皆様、お手数でしょうが、よろしくお願いします」


                              水晶でした


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