綾波記念日

 目の前を過ぎる映像と音が織りなした2時間はあっと言う間に過ぎた。ずっと重ねられていた手の温もりを思い出しながら傍らを見れば、彼は空を見上げていた。映画館の前の混雑に、息苦しそうな顔をしている。
「行こうか」
 彼は私の手を引くと、大通りに向けて歩き出した。

My dear

 夕暮れと呼ぶには少し早い、昼下がりと呼ぶには少し遅い。そんな時間のせいか、立ち寄った公園に人気はない。碇君が販売機で買ったジュースを差し出してくれる。
「はい、綾波」
「………ありがとう」
 こんな感謝の言葉が、意識せずに出てくるようになった。3年前では想像も付かないこと。………3年………もうそんなになる。私が人間になって、3年たった。………今、思い返せばあの頃のことはまるで夢のよう。私は心を持たぬ人形で………プログラムされた通りに生きていた。
 ………止そう、思い出すのは。今は………今の私は人間で………碇君が側にいてくれるのだから。横顔を見上げる。………その表情は少し硬い。
「………碇君?」
「ああ、何でもないんだ。………映画、面白かったね」
「………うん、面白かった」
「でも、あの映画館の椅子、スプリングが悪いんだもんな。お尻が痛いよ」
「バカね………」
 戯けるような碇君の言葉。それが………とても嬉しい。
「それでさ………」
 映画のこと、昨日のTV、最近読んだ本。何気ない、他愛のない会話。公園をただ歩いているだけなのに………どうしてこんなに心が痛いの。でも、痛みは不快じゃない。こんな胸の痛みがあると、碇君が教えてくれた。
 少し疲れた所で、ベンチに腰掛ける。風が冷たいせいか肌寒い。………碇君の腕が私を抱き寄せる。その腕の温もりが………優しい。………肩に頬を寄せる。私の重みを、碇君は何も言わずに受けとめてくれた。
 何も言えなくなり、ただ黙って遠くを見る。この空に、碇君は何を思い、何を見ているのだろう? ………そんなことを思いながら。
「それでねー、ぼくがねー! っておねーちゃんきいてるぅ?」
「聞いてる聞いてる、それでマー君がどうしたの?」
 はしゃいだ子供の声。目を向けると家族連れの姿があった。四つほどの男の子、その手を引く十四くらいの姉。後を歩く両親。………幸せそうなその姿が、誇らしい。何故ならその姿は、碇君が勝ち取った………護り抜いた姿なのだから。
 少年の笑い声が耳に心地よい。碇君が碇司令を………父親を乗り越えて手にした、信じ抜いた確かな物。………それまで私が信じていた全てを否定して、私を人間にしてくれた、碇君の想い。目の前を過ぎた親子連れは、それが形を取った物のように思えた。私を抱き寄せる碇君の腕が、強さを増す。覗き込んだ横顔は、痛みを堪えるかのようだった。
 はっとした。碇君が今の親子連れに何を見たのか………分かったから。家族を………見ていたのね、碇君。失ってしまった物を。
 そう、今世界は平和と言われているのは………数多くの犠牲の上に成り立ったから。世界中のほとんどの人が真実を知らない。結果を知っているだけ。………その真実の中で、どれほどの人たちが傷つき、死んでいったかを、知ることはない。………それでいいと、碇君は言った。悲しそうな瞳で。
「………碇君」
 名前を呼んで、そのジャケットの胸を強く握りしめた。………そうしないと、何処かへ行ってしまいそうな気が………して。
「何、綾波?」
 優しい眼差し。………辛いときも、悲しいときも、どんなときも変わらないあなたの優しさを………護りたい。………だから。
「あなたは………独りじゃないわ。………私が、いるから………」
 ジャケットを掴んだ手に、碇君の手が重なる。
「ありがとう………綾波………」
 お礼を言われることじゃない。私は………私が望むから。私がそうありたいから。そうしていたいから。………だから、あなたを護る。
「気にしないで………あなたを護りたいだけ………」
 そう、どんな時も、何があっても………命と同じくらい大切だから。………命と………同じ?
 ………私は変わった。碇君が変えた。………以前の私なら、彼の存在は命より大切だったろう。「綾波レイ」と言う存在より、「綾波レイ」と言う存在が持つ価値の全てより、「碇シンジ」の命の方が重かったに違いないし、事実、
そうであった。………今は………今なら「綾波レイ」の命は「碇シンジ」の命に等しく思える。………何故なら………何故なら、碇君の側にいたいから。
 ………碇君の側にいたい。………碇君に触れていたい。………碇君の微笑みを見たい。………碇君が好きだから。碇君の側にいる自分が………好きだから。
 だから………「綾波レイ」と「碇シンジ」は同価値なの。私は………あなたなしでは、生きていけないから。
 手を伸ばし、頬に触れてみる。あの頃と変わらない、暖かな肌触りが………少しだけおかしい。
「………好きになってよかった………」
「………え?」
 ………呟き? ………何を言ったのか、聞き取れなかった。でも、何だろう? ………何か凄く損をしたような感じがする。
「何でもないよ………あっ」
 苦笑していた顔は、一気に硬直した。………どうしたの、碇君? 何か激しく後悔しているみたい。………いきなり勢いを付けて立ち上がる。
「………?」
 座ったまま、見上げる。………碇君、緊張してる。
「ちゃんと言ったこと………なかったよね」
「碇………君?」
 すっと背筋を伸ばして、瞳が私を映している。深呼吸をした碇君は、余分な力がなくなった………自然体。そして、口を開いた。
「君が好きです」
「………!」
 ………あ………あぁ、何を………何で………いきなりこんな。
「僕とつきあって下さい」
 何も考えられない………何も分からない。………ただ、目に映っているのは………真剣な………それでいて優しい………何処までも澄んだ………碇君の黒い………瞳。………ああ、そうだった。簡単なことだった。何故なら………もう、私にとっての真実は一つしかないのだから。だから………その通りに答えよう。
「………はいっ。………私もあなたが大好きです………」
 言葉が口を出た途端、体が凍り付いた。旨く言えただろうか? ………ちゃんと伝わったろうか? そして、眼と眼があって。
「………………………ぷっ」
「………………………くす」
 吹き出しながら、碇君が差し出した手を取る。引かれるままに立ち上がった私を………碇君は優しく抱きしめた。そして………耳に吐息がかかる。キスのような呟き。
「………一緒に、暮らそう………二人で」
 碇君の背中に腕を回す。………力の限り、強く、強く。体の震えが止まらない。………でも、それは苦しいからじゃない。悲しいからでもない。………うれしいから。………うれしいから、うれしすぎて………止まらないの。
 夢ね………まるで夢のよう。………夢なら………夢なら覚める前に返事をしよう。………もう、ずっと前から欲しかった言葉に………もうずっと前から用意していた言葉で。
「………は………」
「よぉー! シンジやないかーぁ!!」
 この声! ………反射的に碇君の腕の中から飛び出す。苦虫をかみつぶしたような碇君と声の方を見れば、洞木さんと鈴原君が立っていた。
 碇君が刺のある声を出す。
「………トぉージぃー」
「ん? なんや?」
「何でもないよ!」
 ………でも、鈴原君には分かってない。洞木さんが鈴原君の影で必死に謝っているけど………許しがたい。………………………折角………………いい雰囲気だったのに………………もう少し………………だったのに。
「………何か用?」
「いや、別に用があったわけやないんやけどな。見かけたもんで声をかけたんや」
「………そう………」
「ご、ごめんなさいね、綾波さん、碇君。………その、邪魔するつもりはなかったんだけど、ね?」
 ………自然と突き放すような、昔のような声が出てしまったけど………やっぱり鈴原君は分かってない。
「ヒカリ、わしら邪魔っだったんか?」
「………バカトウジ………」
 碇君がこっそりと、呆れたようにため息をついた。
「なぁ、シンジ?」
「何、トウジ」
「この後なんか予定ないなら、飯でも喰いにいかへんかぁ」
「………そうだなぁ」
 少し考えるような、碇君の声。………思わずジャケットの裾を掴んでしまった。………………いやなの。………いつもなら、気にならない………でも、今日は………今だけは、いやなの。………二人だけでいたいの。
「ごめん、今回は止めとくよ」
「そうかぁ?」
 ………私は言葉にしたわけじゃない。ただ俯いていただけ。………それでも、碇君は分かってくれた。………分かってくれた。………顔が熱い。前を見れない。
「二人っきりのとこ邪魔しちゃ悪いから、ね、洞木さん?」
「碇君!」
「まぁええわ。………ほなら、行くでヒカリ!」
「ちょっと待ってよ! ………碇君、あんまりアスカを泣かせちゃダメよ? じゃね」
 ………胸に痛みが走った。………碇君は慌てている。見なくたって、感じられる。裾を握っていた手を離して、背を向ける。………自分が醜いと分かっている。………嫉妬をしている。誤解と知りながら。………本当に誤解なのかと、疑っている自分が………嫌い。
「あの………綾波?」
「………何?」
 ………少し頼りない………そんな碇君の声にも、ちゃんと答えられない。それがどれだけ彼を傷つけるか………知っているのに。
「綾波………」
 甘えるような声。………そして後ろからの抱擁。感じる温もりと腕の強さ。………………碇君は狡い。………こうされれば、私にあがらう術がないことを知っているのだから。首に回された腕を掴む。涙がこぼれそうになるのを堪えて。………私は………随分と涙もろくなった。
「………綾波………お腹空かない?」
 戯けるような碇君の声。………そう、いつまでもこうしていたいけど………いつまでも拗ねているわけにもいかない。
「少し………空いた」
「じゃ、行こうか」
「………はい」
 その腕にしがみつくように腕を組む。………ここが私の居場所。私の帰るところ。………私の全て。
 私は………あなたに出会って人になった。私が人になる前に、私の全てだった人の、その手の中に私はいた。………生も死も、進むべき道も、全てあの人の指し示すままだった。………今は………違う。
 ここは………この腕の中で、私は私でいられる。………護られている、救われている、導かれている………そして愛されている。………けれど、決して束縛はされない。私にはこの腕の中から飛び出していく自由を与えられている。
 ………だから………私は………あなたの隣で人になれたの。
「綾波………」
「………はい?」
 優しげな声。あなたの声。………あなたの全てを護りたい。どんな時もあなたの側で。………私が、「綾波レイ」が人であるために。そして何より………私があなたの側にいたいから。………この腕から飛び出していく自由なんて………本当はいらない。あなた以外の誰が、私を幸せにできるの?
「………大好きだよ」
 ………知っている。だから………声にならない声で答えるの。
 あなたを………愛しています。永遠に。
<了>  

水晶より                  
愛しき記念日に添えて………   

BGM:My dear        
By:Megumi Hayasibara   

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