甲羅の中にある福音

福音の18 あすか

「この度は、ご愁傷様でした」
「いえ、色々とお手間を取らせてしまって。お力添え、ありがとうございます」
 リツコのアジトこと理科準備室。登校してきたシンジとアスカに、居合わせたミサトがしおらしく頭を下げた。流石に、このスチャラカ教師も慶弔は心得ているようだ。
「赤木先生も、ナオコさんによろしく伝えてください」
「ええ。でも、母もシンジ君に会えて喜んでいたわ。………ごめんなさい、ちょっと不謹慎だったわね」
「いえ、気になさらないでください」
 振舞われたビーカーコーヒーに口をつけながら、シンジが微笑む。これまでのシンジが見せていた、追従と周りの空気に合わせただけの仮面の笑顔と違う、憂いを含んではいるが、シンジ本来の優しい微笑み。年下の、それも教え子だと分かっていながら、ミサトとリツコ揃って惹きこまれそうだった。
「シンちゃん、良い顔するようになったわね」
「男子三日会わずば活目して見よ………ね」
 アスカに渡すには惜しいかも。唾突けときゃよかった。優しい顔をしながら、内心で臍を噛む教師二人。親友だけあって、この二人の思考と嗜好は似通っているらしい。これでも教師。日本の教育委員会は何をしているのだろうか?
「シンちゃんって、それやめてくださいよ、葛城先生」
「シンちゃんはシンちゃんじゃない。それに、私のことはミサトで良いわよん」
「そうね、私もリツコでいいわ」
 肩をすくめて苦笑するシンジには、何故、突然彼女たちが名前で呼べと言いだしたのかさっぱり分からない。まぁ、アスカの事を含み、大分親しくなったのだし、名前で呼ぶくらいはいいかと、納得。
「分かりました、ミサト先生、リツコ先生」
 呼ばれて、何だか胸ときめかせちゃう教師二人。これ以上はマジでヤバイと思いつつ、そんな背徳感がまた甘美だったりして。………鬼のようなタイプ音が響かなかったら、この場で押し倒して頂いちゃったかも知れない。
「どうしたの、アスカ?」
『何でもないわよ!』
 言いながら、メール送信。送り先は、リツコのPCで、圧縮してなお3メガもあるテキストファイルに、悪口罵詈雑言がこれでもかと打ち込まれている。メール受信を確認して、エディターに開いたリツコのこめかみが引きつるくらいに苛烈な内容だった。要約すると、シンジに手を出すな行き遅れ! である。後で絶対に泣かすと、心にメモするリツコである。
「そろそろ教室に行った方がいいわね」
「あ、はい。また後でね、アスカ」
 ミサトに促されてシンジが立つ。アスカに優しく微笑む辺り、二人の距離が縮まっているのがバレバレだ。惜しいとは思うが、アスカの人生でこれ以上レベルの高い男が現れる可能性は、まさしく絶無だろう。姉代わりとしては、ま、ぁ、見守るより仕方ない。
「あ、シンジ君。今日、放課後はアスカを向かえにこなくていいわ」
「え? 何でですか、リツコ先生?」
 怪訝そうなシンジと何かを喚いているようなアスカに、リツコが微笑む。
「中和剤、かなり仕上がってきているの。アスカの細胞と血液との調整があるから、彼女に付き合ってもらうわ。大丈夫、少し遅くなるけど、終わったらちゃんと送り届けるから」
『中和剤、できるの!?』
「そうですか! やったね、アスカ!」
 手と手………手と前足を取って喜び合う二人だが、流石に時間が押している。
「嬉しいのは分かるけどね、早く行かないと遅刻になるわよ」
 再度ミサトに促されて、シンジは慌てて教室へと飛び出していった。見送ったアスカが、ちょっと切なげなため息なんか落としちゃったりしたのは、かなりの不覚だった。
「さて、アスカ?」
「何があったのか、洗い浚い話してもらいましょーか?」
 瞳にヤバイ光をたたえたミサトとリツコ。しまったと思うが、すでに後の祭だ。筆舌し難い追求の数々を、アスカは甲羅に篭ることでなんとかやりすごすのであった。


 教室の中。何やら雰囲気がおかしい。気づいていないのはシンジただ一人だが、クラスの誰もがヒソヒソと密やかに言葉を交わしている。
 原因は、シンジだ。ここ数日の欠席が、家族の不幸と言うことは知れている。今朝、彼が登校してくるまでは、男子も女子も、肩を落としているであろうシンジを慰め、元気いけようと息まいていた。しかし、教室に現れたシンジを見て、誰もそれを実行できなかった。だって、シンジ本人まるで堪えていない顔しているんだぜ?
 無理をしているのか、顔で笑って心で泣いているのか? そんな風に考える者もいたが、シンジの自然な笑顔を見るに自説をとりさげた。少々の陰りがあるが、今のシンジの笑顔は以前にまして優しい。それこそ、必殺技のようだ。
 休んでいる間に、一体何があったのか? 解けぬ謎を抱えて、2−Aの面々は妄想を逞しく、シンジを伺ってはため息を落とすのだ。………一番の犠牲者は、授業を行う教師たちだろう。この日、2−Aを受け持った全教職員が、後に口を揃えてのたまった。
「やりにくくて、生きた心地がしなかった」
 閑話休題。


 放課後。シンジは理科準備室でアスカの顔を見た後、学校を後にした。何故だか知らないが、げっそりとやつれていたアスカの姿が印象的だったが、アスカ本人が何でもないと言う以上、追求は不可能だろう。せめて、今夜の夕食はアスカの好物にしてあげようと思う。
 スーパーで買い物を済ませ、家路を急ぐシンジの足を止めたのは、クラクションの響きと、知った声。
「やほー、シーンちゃん!」
「ミサト先生?」
 軽い呼ばわりに振り向けば、そこにミサトがいた。愛車である青いルノーから、気軽に手を振ってくれている。小走りに駆けよって、シンジは会釈をひとつ。
「相変わらず生真面目ね、シンちゃん。そんなんじゃ、禿るわよ?」
「そうですか? 気をつけます。ミサト先生こそ、ビールばかり飲んでいると太りますよ?」
 さらりと返された皮肉に、ミサトは笑いをこらえることができなかった。この子も変わったと、思う。前は間違ってもこんなことを口にすることは無かったのに。………小生意気な台詞だけど、これでいいとミサトは満足げにうなずく。
「あら、言うわね。私のダイナマイトボデーの何処が太っているって言うのよ?」
 言って胸を突き出す。ゆさりと揺れるバストに、シンジが顔を赤くするのが可愛い。からかい甲斐があるってものだ。ひとしきり笑って、ミサトは愛車の助手席を指差した。
「乗っていきなさいよ。送ってあげるから」
 初めは断ろうとしたシンジだが、ミサトの粘りに根負け。苦笑して、乗りこむことになった。手にしていた荷物は申し訳程度の後部座席に。そこに2ケースのエビチュビールを見つけて、肩をすくめた。この女性には何を言っても無駄なのだろう。
 しばらく、他愛のない会話が車内を満たす。学校のこと、テストのこと。そして、話がアスカの話題に及んだ時、ミサトは急に車を止めた。路肩に一時停止して、下りる。何をとシンジが問う前に、目の前の店に入って行ってしまった。看板やショーウィンドゥから察するに、ケーキ屋のようだ。
「ごめんごめん、おまたせー」
 ニコニコ笑いながら、ミサトは持っていた包みをシンジに手渡した。視線で問うシンジに答えて、なお笑う。
「それね、私の奢り。アスカと二人で食べて?」
「ありがとうございます。ご馳走になります」
「えへへ、いいってことよん!」
 再び走り出した車内で、シンジはミサトの変化に気づいていた。何かを言い出したくて、でも言い出せない。そんな雰囲気だ。このケーキも、ミサトが言い出せない話題の為の布石なのかも知れない。察して、水を向けてみる。
「ケーキ………」
「え?」
「アスカは、どんなケーキが好きなのかなって思ったものですから」
 向けた水をそれと悟ったか、それとも単純にアスカの話題だったからから、ミサトはぱっと表情を明るくして得意そうにのたまった。
「アスカはね、あれでいてイチゴが大好きなのよ」
「じゃ、このケーキも?」
「ええ。イチゴのショートケーキとイチゴのタルト、あとはチーズケーキよ」
 如何にもな選択に、笑みがもれる。笑いあって、ミサトは表情を改めた。幾つもの感情が入り混じった、複雑な表情。一番強い感情は、憐憫だろうか?
「アスカはね、ケーキが大好きなのよ。でもね、自分でお金払って食べるのは、誕生日だけって決めているの」
「ケーキが好きだって言うのは、女の子だから分かります。………でも、変なポリシーですね、それ?」
 少しでも空気を明るくしようとしたシンジの冗談交じりに言葉に、ミサトは黙って首を振った。
「あの娘は………知らないのよ。贅沢とか、人に甘えるってことを」
 泣き笑い。そんな形容詞が一番あう顔で、ミサトは語り出した。彼女の、妹分の歩んできた道のりを。

 アスカの生みのお母さん、キョウコさんは、私とリツコの中学の頃の恩師でね? 卒業後もなんだかんだとお世話になっていたのよ。だから、アスカとはおしめが取れる前からの付き合い。
 あれは、アスカが4つの時よ。細かい話は省くけど、キョウコさんは旦那さんとの折り合いが悪くて、心を病んで………自殺、しちゃったのよ。第一発見者は、アスカよ。
 それでも、アスカは気丈だった。キョウコさんを失った悲しみから立ち直ってくれたのよ? 嬉しかった。でも………そんなアスカの強さを、彼女の父親は誤解していた。
 彼が再婚したのは、キョウコさんが亡くなって、半年もしない内で。義理の母となった女性と、アスカはそりがあわなかった。しかたないって、思う。アスカも尖がった面を見せていたしね。
 そして、アスカは家を出たのよ。たったの、7つでね。一人で生きるんだ、誰にも頼らないんだって、そう言って。お父さんの手も、お義母さんの手も撥ね退けて、あの娘はがむしゃらな努力を始めたわ。辛うじて私とリツコだけが、手を貸すことができたけど、それ以外の全てを、あの娘は否定してきたのよ。
 誰にも負けない、絶対に一番と言う考え方や、外面を果てしなく良くして見栄張りまくりって言うのは、アスカの鎧なのよ。まぁ、ちょっとばかり方向性がずれちゃっているのが、抜けているって言うか、あの娘らしいと言うか。
 並大抵じゃない努力の末に、今のアスカがあるの。力一杯、命の限りに走り続けているのよ、あの娘は。だから、いつだって不安で、心配だった。いつか、力尽きて倒れるんじゃないかって。いつか、自分で作り上げたプライドに押し潰されちゃうんじゃないかって。
 ………今はね、シンジ君に感謝しているわ。アスカがカメになっちゃったのは、笑い話にもならない不幸だけど、あの娘を拾い上げてくれたのが、あなたで良かったって思ってる。
 気づいてないの? アスカはあなたといる時、とてもとても生き生きとしているわ。我侭をたくさん言うのでしょう? これでもかって言うくらい、注文が多いのでしょう? やっぱりね。
 それはアスカの、見栄の張り方だけ上手い、意地の張り方しか知らないアスカの、精一杯の甘え方なのよ。慣れてないからヘタクソだけどね。あの娘、私たちには甘えてくれないわ。もう、十年以上も側にいるのにね。………だから、感謝しているのよ、シンジ君には。
 ありがとう………アスカを、妹を救ってくれて。本当に、ありがとう。

 言葉をなくしたシンジを、彼の家近くの通りに下ろし、ミサトはウィンクをくれた。カメが治ったら、問答無用で押し倒してモノにしちゃいなさいと、教師にあるまじきお言葉を残し、ルノーは爆音を立てて去っていった。
 シンジには、無言で見送ることしかできなかった。手の中のケーキの箱が、とてもとても重かった。


 惣流・アスカ・ラングレーを一言で表せ。そう問われれば、シンジは迷うことなく、こう答える。凛々しい、と。
 アスカは凛々しいと、冗談でなく、誉め言葉でシンジは思う。アスカがカメになる前、どんな少女だったか、シンジは殆ど知らない。ただ、背筋をきちんと伸ばして歩く姿だけを覚えている。そして、シンジが知っているアスカと言う少女は、カメだ。
 意地っ張りで見栄っ張りで強情で、喧しくて文句多くて煩くて、めげない。カメになった当初こそ混乱し人生を悲観していたが、今ではカメライフを満喫している節すらある。そんな強くて逞しいと言うイメージを、シンジはアスカに持っていた。そう言う、その辺の男の子より、強くて逞しくて立派な女の子だと、信じて疑わなかった。だから、凛々しい。………けれど。
 シンジは包丁を持った手を止め、ため息を落とした。ミサトから聞いた、アスカの過去は衝撃的だった。アスカの部屋を見たことあるから、多少なりとも訳ありだろうとは、思っていた。だけど………まさか、あそこまでとは。
 シンジが思っていた以上に、凄惨なアスカの過去。だから余計に、シンジは彼女を尊敬する。あれほどの過去を持ちながら、前を向いて進むことの出きるアスカを。自分のように怯えながら仮面を被って、偽りの行き方を選択しなかった彼女を、尊敬しないではいられない。
 頭を振り思考を切り替えて、料理に向き合う。きっとアスカはブチブチ文句を言いながら帰ってくるだろう。それが自分の為だと分かっていても、実験動物のように扱われるのが屈辱なのだ。ぷりぷり怒っている口調まで思い浮かぶので、シンジは苦笑しながら包丁をふるう。
 腕によりをかけたハンバーグ。ソースもネットで仕入れた知識を使って工夫して、特製のデミグラスだ。きっと、アスカは喜んでくれる。笑顔を想像して、ふと、シンジは思う。………アスカの笑顔が見たい。
 カメのアスカの笑顔じゃなくて、人間の、14歳の中学生の、本当のアスカの笑顔。それが見たい。
 これまでシンジは、アスカの笑顔を見ているはずのだ。学校で、教室で、廊下で。なのに、どれほど思い出そうとしても、彼女の笑顔はぼやけてしまっている。こんな大切なことすら、まともに覚えていなかったのかと、自分が嫌になるくらいだ。自分が、何故ここまでアスカの笑顔を見てみたいと思うのか、その理由は分からない。だけど………多分、いや、きっと、アスカの笑顔は素敵だと思うから。
 遠くからエキゾート音。間違いなく、家の前で止まって、しばしの静寂の後、ノック。いそいそとドアを開ければ、カメ片手の金髪白衣。
「こんばんは、シンジ君」
『たっだいまぁ!』
「おかえり、アスカ。いらっしゃい、リツコ先生」
 元気一杯に帰ってきたアスカが、デミグラスソースの匂いに心奪われている。リツコにも相当効いている。
「良い匂いね」
『私のハンバーグだから渡さないわよ!』
 アスカの文句に苦笑して、それでもシンジはリツコを誘う。後ろ髪引かれるが、リツコにはまだやらねばならないことが多い。残念ながらと断って、セリカを駆って去っていった。エキゾートが荒いのは、彼女の未練だろう。
『あー、つっかれた! シンジ、早くご飯にしてよ!』
「うん、今すぐやるよ」
 上機嫌でニコニコしているアスカを見ると、自分まで気分が良くなってくる。キッチンに立ち給仕を始めたシンジの背に、アスカがマシンガンのように話し掛ける。いちいち頷き、相槌を打ちながら、シンジは強く思った。
『あ! これ、ケーキ? ケーキよね?』
「うん、ミサト先生が奢ってくれた」
『ミサトの奢り? ………毒なんて入ってないでしょうね?』
「そんなこと言ったら悪いよ」
『いいわ、ケーキに罪はないもんね!』
「じゃ、ご飯の後にね」
『うん!』
 アスカの笑顔が見たい。その為に、できること全てをしよう。


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