甲羅の中にある福音

福音の11 優しさに包まれたなら

「ただいま」
『ご苦労! あ、私紅茶が飲みたいな』
「………はいはい」
 この手のことに対し、すでにあきらめをつけているシンジは、逆らわずにキッチンへ。自分の分と、アスカの分を用意し、アスカの分は少し深めの小皿に煎れて出す。仕込まれた通りにミルクと砂糖を加えることは、忘れない。忘れると、偉い剣幕で怒鳴られるのだ。
 紅茶を舐めるようにして飲んでいるアスカを尻目に、シンジは鞄から荷物を取り出す。なんとなく、横目で眺めていたアスカだが、ふと気になる物が見えた。
『シンジ、それ何?』
「え? これ?」
 朝は持っていなかったはずの、紙袋。察するに本か雑誌が入っているのだろう。帰りに本屋に立ち寄った訳でもないので、余計に気になった。
「これはね、相田君が貸してくれたんだ。息抜きに使えって」
『ふーん? ね、どんなのか、見せてよ』
「うん」
 好奇心丸出しのアスカを可愛く思いながら、シンジは紙袋を開き、中に入っていた雑誌を手にして………取り出そうとして慌てて止めた。顔が赤い。どうやら、相当に危険なシロモノだったらしい。何がどう危険なのか、アスカの明晰な頭脳は分析を違わない。
『どうしたの? 早く見せてよ?』
「え………えーっと………」
 シンジの態度から、何が入っていたのかを察していながらも、アスカはこれをからかいのチャンスと悟って、努めて何気なく促す。困ったのはシンジだ。紙袋の中身は、何と言うか、つまり、裸のお姉さんたちの写真が沢山載っているような雑誌で、普段のシンジなら興味一つ示さずに、無感動に放り出していただろう。
 だが、今は違う。手ぐすね引いて、悪い微笑を浮かべているカメがそこにいるのだ。見つかったら、徹底的に、それこそ骨までしゃぶらんばかりにからかわれて、変態扱いを受けるに違いない。同居からの短い間にも関わらず、ケダモノ以下のスケベの称号を頂戴しているのだ。まこと、ありがたくない。
『早くしなさいよ、シンジ!』
「あ、あははは………た、大した物じゃないからさ、その、アスカが見るほどの物じゃないよ」
『そんなの、私が決めることよ。いいから、さっさとしなさい』
 誤魔化しは、即座に斬り捨てられた。引きつるシンジの目に、ニヤリと嫌な感じに笑うカメの顔。………気づかれていると、悟った。アスカは紙袋の中身が何であるか、気づいている。いながら、せっついているのだ。自分をからかうために。退路は、遠の昔に断たれているようだった。
 でっかいため息をつき、シンジはあきらめた。からかわれるのも慣れた。自分が少々我慢すればいいだけのこと。幸いにしてアスカはカメだ。クラス中に言いふらすとか、学校中にふれまわるとか、そう言う品位を落とすような真似はしたくてもできない。もっとも、このプライド天井なしの娘は、他人を貶めて喜ぶ趣味を持ち合わせていない。その点では問題ないとも言えるが、アスカ個人がからかい、笑い者にする分には、歯止めと言う物が存在していないのも事実だ。
 悲壮なほどの覚悟を決めて、シンジは目をつぶって紙袋から件の雑誌を取り出した。これがSM系や、盗撮系の雑誌だったら、シンジはアスカのカメが治り次第、相田何某と共に夜空の星になっていただろう。幸いと言うのは語弊があるが、極々ノーマルでライトなH雑誌であった。
 嵐のような罵倒とからかいを覚悟し、逃げちゃ駄目だと口の中で繰り返すシンジであったが、予想に反して、アスカは何も言ってこない。恐る恐る見れば、じーっと、静かに手の中の雑誌の表紙を眺めている。
「あの………アスカ?」
『いつまで持ってるのよ、それ』
「え? あ! ご、ごめん!」
 言われ、慌てて紙袋にしまおうとして、またしてもシンジは固まった。
『しまうんじゃないわよ! 床において! 読むんだから』
 ………読むんですか、これ? 言葉にできず、顔中で問うたが、きっぱしと頷かれてしまった。麻痺した言語中枢では反論は不可能で、って言うか麻痺してなくても反論不可能なんだけど、とにかく、シンジはアスカに読めるように雑誌を床に広げた。実に尊大な態度で、アスカは雑誌の前に陣取り、食い入るように読み始めた。
 梃子でも動きそうのないその甲羅を見やり、シンジはため息を落とす。元来、男の子に限らず、女の子だってこーゆーことに興味はあるのだ。14歳の中学二年生、ただいま思春期真っ盛りである。だから、アスカがかようなH雑誌に興味を示しても、なんら不思議はない。ないのだが………やっぱり思春期の男の子として、鼻息荒くしてH雑誌にくびったけな同級生の女の子と言う構図は見たくなかった。
「僕は何も見なかった。何も聞かなかった………これで良し」
 小さく自分に言い聞かせ、シンジは夕食の準備に取り掛かる。現実逃避の手段としては上策だろう。あれこれとメニューに頭を巡らせれば、背後でH雑誌にくびったけのカメの存在などすぐに忘却できる。だが、運命の女カメ様は情け容赦がなかった。
『ね、シンジ! シンジ!』
「何、アスカ?」
 呼ばわりに振り向くと、こちらに雑誌を差し出すようにしてアスカが見上げている。開かれたページの左右に一人づつ、裸のお姉さんがポーズを取っているのを見て、シンジはすぐに視線を外した。
「な、何のようなんだよ?」
『あんたはどっちの女が好み?』
 ずばっと聞かれた。ストレートど真ん中だった。間違っても同級生の女の子に聞かれる質問じゃなかった。カメ鍋にしてやろうかと物騒なことを考えながら、シンジは頭を抱えたい衝動と戦っていた。
『右は顔がイマイチだけど、胸は大きいわね。左は体は大したことないけど、美人よ。どっちが好み?』
 そんな少年の心情など頓着せずに、アスカは嬉々としている。楽しくて仕方ないと、声が物語っていた。なので、シンジはアスカの前で久しく被っていなかった心の仮面を取り出した。
「そうだね。右の方」
『………その心は?』
「電気消しちゃえば、顔なんて分からないから」
『あんた………意外とシビアなこと言うわね?』
「実経験がないからね」
 アスカが期待したほどに、シンジがオタオタしなかったのがつまらない。もっとも実経験がないと言う台詞は、深く考えるとかなり危険な香りがする気もするが。
『じゃ、美貌とプロポーションが揃っているなら、電気つけたままでするの?』
 がくりとシンジがこけた。いやまったく、少なくても14歳異性の同級生から頂戴するお言葉でない。何だか痛むような頭をふって、シンジはため息と一緒に答える。
「そんな人、滅多にいないし、第一、僕なんかを相手にしてくれる訳ないじゃないか」
『何よ、ここにいるじゃない、美貌とプロポーションを兼ね揃えた美少女が』
 見れば、ふんぞり返ろうとしているカメ一匹。美貌もプロポーションもあったもんじゃない。深いため息だけが落ちた。
「はいはい、そうだね」
『むー! 何よ、そのなげやりな返事は!? 私の美貌に文句あるって言うの!』
「………だって、アスカ」
『何よ!!』
「アスカが僕の相手をしてくれる訳じゃないだろ?」
『そ………そんなの、あったりまえじゃない!』
「でしょ? なら、仮定するだけ無駄だよ」
 軽く笑って、シンジはキッチンに向かう。背を見送って、アスカは甲羅に引っ込んだ。相手、相手って一体なんの相手なのよぉ〜、と叫び出したいのを必死になって噛み殺す。自分からふった話題とは言え、ちょーっと危険過ぎたようだ。もしも可能なら、頭を抱えてゴロゴロと転がっていたに違いない。カメでは構造上無理なのがありがたいかぎりだ。
「アスカ、今日の夕ご飯は何がいい?」
『ハンバーグ!』
「ま、また? アスカ、そればっかりじゃないか。たまには魚介類とかで、栄養のバランスを考えないと」
『えー? じゃ、エビフライ!』
「………分かったよ」
 何気ない会話になったのが、アスカもシンジもありがたかった。


 何だか悔しいアスカである。そこはとなくと言うか、きっちしはっきり感じていることだが、シンジの方が彼女より何倍も、もしかしたら何十倍も料理の腕がいいのだ。見栄女王としては、一点であっても他者に劣っているのはプライドが許さない。カメが治ったら、自分も料理の修行をしてみようか? そんなことすら考えてしまう。
「………どうしたの、アスカ? 何か、口に合わない料理があった?」
『そんなことないわよ!』
「そ、そう………」
 わしわしと程よいサイズに切られたエビフライを貪りながら、アスカはやっぱり面白くない。そう、これはリベンジを企画するしかないだろう。さりげなく料理の腕を自慢された気がするので、自分にも負けないくらいにできるところを見せ付けてやらなくてはならない! そう、これは決定事項だ。
 ぬーっと、首を捻ってアスカは考える。………お弁当など、どうだろう? 色違いで、でもお揃いのナプキンで包んだ二つのお弁当箱。ちょっと照れて頬を赤らめて、少しぶっきらぼうに、でもホントは不安げに差し出して。上目遣いとはにかんだ微笑がポイント。おお、これは萌えるシュチエーション!
「あー、えっと、アスカ?」
『何よ?』
「体の調子でも、悪いの?」
『はぁ?』
 気づけば、シンジはとっくに食事を終えているようだ。結構な長さの時間を、シュミレーションに費やしていたことに気がついて、アスカ慌てる。わしわしとお皿に顔を突っ込んで、誤魔化して。シンジが鈍くて助かった。
 でも、考えておこう。お弁当復讐計画。………カメが治ったらね。


 サイレントチェロを一心不乱に弾いているシンジ。普段は薄らすっとぼけた顔しているのに、この時ばかりはそれなりに凛々しい顔しているような気がしないでもないような感じを受けないと言えば嘘になるようにも思える今日この頃、如何お過ごしでしょうか?
 我が事ながら、何を考えているのか、さっぱり分からないアスカである。混乱してる訳でもないが、こうしてシンジの顔を眺めていると、モヤモヤする。嫌な感じじゃないのだけど、すっきりしない。シンジのイヤホンにだけ流れているはずの旋律。それが気になる。言えば、シンジは聞かせてくれるかも知れない。でも、せがむ気にはなれなかった。
 考えてみれば、碇シンジは凄い奴だ。しみじみと、アスカは思う。寝食を共にして知ったシンジの生活サイクルと、己のそれと比較してみる。眩暈がして、落ち込んだ。
 シンジは勉強をあまりしない。いや、きちんと出された宿題はこなすし、予習復習も欠かさない。欠かさないが、机に向かっている時間はそれほど長くないのだ。授業中に、その内容をしっかりと咀嚼し、理解している証拠だろう。………アスカは、いつだって早朝と深夜に猛勉強を重ねてきた。
 シンジは、自分の服装、スタイルに無頓着だ。清潔であることは心がけているが、それ以外にファッション誌を開いたり、自分の外見をチェックしたりしない。それなのに中性的で線の細い、優しげな美少年と評判が高い。………アスカは最新の流行のリサーチから、鏡の前での自己チェックまでこれでもかと行っている。
 シンジは、極自然に他人を気遣う。………アスカは打算が混じっていることが多い。
 シンジは、料理も掃除も洗濯もきちんとこなし、そつがなく、料理に関してはそこいらのレストラン裸足である。………アスカは、どれもそれなりにできるが、できるだけである。飛びぬけた腕を持っている訳ではない。
 シンジは………アスカは。比べる度に、気分が沈む。自虐でなく、事実として、シンジは殆どの面においてアスカより勝っていた。………言いなおそう。本当のアスカよりも、勝っていた。アスカが被っている仮面。他人に良く見せようと偽ってる仮面のアスカは、シンジに対し勝るとも劣らない。だが、それは何処まで行っても偽りでしかないのだ。
 周りの誰もが目をくらませてる黄金のアスカは、実はまぎれもないメッキのバッタ物でしかないのだ。それに比べて、シンジは真の銀だ。黄金と比べて、貴金属としての価値は下とされていても、メッキのバッタ物とは比べるだけバカらしい。本物の輝きは、アスカのメッキを容易く貫いてしまった。
 流石は我が天敵。そう思いながら、以前の燃えるような敵愾心が薄れてしまっているのは何故だろう? シンジの姿を見るだけで殴りつけてやりたかった。シンジの声を聞くだけで、首を捻ってやりたかった。もちろん、本当にそれをしたかったかと聞かれれば、答えはノーだ。だが、そう言うことを妄想するくらい、アスカにとってシンジは目の上のたんこぶで、憎たらしく、嫌な奴であった。シンジが自分より優れているなどと、死んでも認めたくなかった。
 でも、だけど、どんなに認めたくなくても、認めるしかなかった。シンジは、本物だったから。アスカがこうありたいと望み、そう見えるように糊塗してきた、本当の本物。なんて………凄い奴なんだろう。
 敵愾心を燃やしていた自分が、矮小に見えるほど、シンジは凄い。だけど………きっとシンジはそれを自慢したりしないだろう。そんなことをする奴じゃない。悔しいなぁと思う反面、憧れもある。あんな風に、私もなりたい。
 シンジの弓が止まる。音が聞こえなくても、曲の切れ目だと分かった。だから、大声で注意を引く。
『シンジ、喉乾いた! 何か煎れて!』
「うん。紅茶でいい?」
『いいわよ。ミルクはたっぷりとね?』
「はいはい」
 汗を拭き、苦笑しながらシンジは紅茶を用意する。その姿を見ながら、アスカは微笑む。ま、確かに比べると切なくなるくらい完璧な奴だけど、そのシンジを顎で使っているのが、この私。ヒラエルキーは、確実に自分の方が上だ。
 自分の下僕が優れているのは、気持ちがいい。だから、シンジに対して敵愾心が薄れたのかも知れないと納得して、アスカはシンジの煎れてくれたミルクティーに舌鼓を打った。


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