甲羅の中にある福音

福音の4 彼の住む家

 ざわざわと、心が騒いでしかたがない。教室に入っても、それで何が変わる訳でもない。アスカは依然としてカメだし、リツコ、ミサトの二人に結果的に無視されたショックで甲羅の中に引きこもっている。いくらシンジが声をかけても、返事をしてくれなかった。
 その内に、他の生徒が登校してきて、教室の中に雑音が混じる。かけられる挨拶、振られる話題に愛想良く反応しながら、シンジは胸の中に暗く激しい何を貯め続けていた。
「碇、その胸ポケットの、何だ?」
「あ、おれも気になってた。それって、もしかしてカメか?」
 目敏い級友がアスカに気づいたとき、シンジは歯を噛んだ。しまったとも、思った。なのに、内心を隠しきって、口はでまかせをとうとうとのたまう。
「公園で拾ったんだ。何だか具合が悪そうだったから」
「物好きだなぁ、碇は」
「ほんと、爬虫類にまで優しいなんてさぁ」
 笑いが起こる。合わせて微笑みながら、耳は別の会話に向いていた。アスカの不在を不思議がる会話だ。体調でも崩したのかとか、お見舞いに行こうかと言う話だ。今日が土曜日だったことに感謝したくなる。少なくても、明日はアスカが学校に来なくても不思議ではないのだから。
「な、そのカメ、ちょっと見てもいいか?」
 気がついたら、伸ばされた手を叩き払っていた。パシンと言う乾いた音に、教室が静まり返る。
「………ごめん、どうかしてるね、僕」
「あ、いや………おれの方こそ、すまん」
 先んじて謝ってお茶を濁して………シンジは我慢ができなくなった。鞄を持って立ちあがる。
「あ、おい、碇?」
「ごめん、僕、気分が悪いから早退するよ」
 言うだけ行って、後は振り返らずに教室を出た。当てがある訳じゃないが、このままアスカを放っておきたくなかった。


 校舎を出て、シンジは昨日の公園に来ていた。誰にも咎められずに学校を抜け出せたのは、かなりの幸運だろう。だが、今のシンジにはそんなことはどうでもいいことだ。
 アスカがカメの姿に変わったしまった場所に立ち、注意深く周りを見渡す。特に異常は見うけられない。それでも、手がかりはここしかないのだ。
『………あんた、何やってんのよ?』
「惣流さん………!」
 何度も何度も見渡す内に、不機嫌なアスカの声。ぱっと顔を輝かせて、シンジはポケットから彼女を取り出した。アスカはちらりと周りを見た後、視線を落としてうつむいている。
『授業はどうしたのよ、優等生の碇シンジ君?』
「やめてよ、惣流さん。そんなこと、どうでもいいよ」
『はっ! 流石は学校の有名人! 授業なんて聞かなくてもいいんだ? できる人は違うわね!』
 シンジはため息を落とす。アスカが絡んでくる理由は分からない。でも、気持ちは分からなくない。否定、拒絶。それはシンジの心の奥底にある、根源的な恐怖に他ならないから。だから、アスカの雑言に何も言い返さない。
「惣流さん………惣流さんの声は、僕しか聞こえないみたいだ」
『それが何だって言うのよ!』
「だから、好きなだけ、僕を罵って良いよ。何も、気にすることないから」
 ぐっと、アスカは言葉に詰まった。反論してくれれば、更に口撃を叩きこむことができたけど、こんな風に受け止められちゃったら、何も言えやしない。何より、シンジには何の責任も咎もないのだ。黙り込んでしまったアスカを再びポケットにしまいこみ、シンジは公園の中を探索し始めた。
 流石に地面を掘り返すことはしないが、目に付く茂みや石を注意深く観察し、何か変化や手がかりになりそうなものがないかと探していく。しばらくはポケットの中で小さく毒づいていたアスカだが、やがてシンジの奇妙な行動に対する好奇心が勝った。
『ねぇ、あんた、何やってるのよ?』
「うん………何か、手がかりがないかって思って」
『手がかりぃ?』
「そう。惣流さんの姿が変わってしまったことの、手がかりだよ」
『あんた、そんなの………』
 ある訳ないと、口にできなかった。こう言うとき、カメの首は便利で、にゅーっと伸ばして、シンジの顔を見上げる。あおりの位置からなので、いまいちだが、その表情が真剣なのは見て取れた。アスカにしてみれば馬鹿馬鹿しい限りのことを、このお人好しは本気で行っているんだ。
 何だか、さっきまでショックが何処かに行ってしまったような感じがして、アスカは甲羅の中に引っ込んだ。そんなことはないだろうけど、もしかしてもしかすると、顔が緩んでいるかも知れないから。


 結局、シンジがあきらめて家路についたのは、夕方も近い午後三時を回った後だった。当然のように昼食を抜いての行動なのだが、自分の為とあって、アスカも文句が言い辛かった。なんだかんだと宥めすかして、お腹空いたから帰ると強権を発動して、ようやくの家路となった。シンジのシャツは汗で湿っており、それを身をもって感じられる場所にいながら、アスカには嫌悪感がない。他人の、それも男の子の汗なんて、不潔なだけのはずなのに。
 それを少し不思議に思いながら、別の意味でアスカは興味深々で首を伸ばしていた。昨日は気を失っていたし、今朝は甲羅に隠れていたので、未だシンジの住まいがどのような外見の建物かを知らないのだ。整理整頓はされていたが、壁や天井の素材はあまり良いものではなかった。そのくせ、アスカの主観では高級な楽器があったりして、ちょっとばかりアンバランスな印象を受けていたのだ。さて、このバカはどんなアパートに住んでいるのだろうか? 変な名前だったら、笑ってやろう。
 そんなことを考えていた。………めちゃくちゃ後悔した。
 シンジが何事もない顔でくぐった門は、ちょっと大き目の一軒家で。そのまま玄関を通るかと思ったら、横にそれて庭に出て。そこに立てられたプレハブのような小屋に向かって。
「ただいま」
 当たり前の顔して、小屋の中に入ってしまった。中は、アスカの知っている通りで………正直、開いた口がふさがらなかった。
『ちょ………何よ、これ………』
「え? 何が?」
 バスルームに引っ込んで、制服を気軽な普段着にかえてきたシンジが首を捻る。アスカは逆に混乱したまま。それが何を意味しているのか察して、シンジは笑いながら説明を始めた。
「そうか、知らなかったんだね。僕はね、この家の子供じゃないんだよ」
 口調こそ軽いし笑顔でありながら、アスカはぞっと背筋を凍らせた。自分は大丈夫だ、なんでもないんだ。そう言うシンジのポーズは、ポーズでしかないんだと、分かったから。
 母親は幼い頃に死亡。父親は生きているはずだが、親戚筋のこの家にシンジを預けたきり。養育費だけは振り込まれているらしいが、音信は不通。半ば以上、厄介払いで小学高学年からこのプレハブ小屋で一人暮しをしているとのこと。
「それまでは小間使いみたいに色々家事手伝いをさせられていたから、正直一人になってほっとしたよ」
『ほっとしたって………あんた………』
 それで女性の下着の扱いまで知っていたのかと納得する反面、疑問も残った。こんな何でもないって顔で話せることじゃない。なのに、シンジは何でもないと笑っている。本当に何でもないと言えるほど強いのか、強がっているだけなのか、判断がつかなくて。
「それより、惣流さん。何が食べたい? 今日は惣流さんの食べたい物、何でも作るよ」
 とろけそうな甘い言葉と笑顔に、何だか言葉を詰まらせながら、アスカはポロリと本音を出してしまった。
『オムライスとハンバーグ………』
 口にして失敗したと青ざめた。まるっきり、お子様ランチなメニューである。普段の完璧な美少女の姿からは到底想像もできないメニューである。また笑われると首を引っ込めたのに。
「うん、分かった。ハンバーグは、昨日がデミグラスソースだったから、今日は和風で大根おろしとしょうゆでいいかな?」
『う、うん』
 あっさりと承認され、首を出したら財布を持ったシンジがいて。
「材料が足らないから、ちょっと買い物に行ってくるよ。少し、待っていてね?」
『うん………』
 ろくに反応する間もなく、シンジの姿が消えてしまった。途端、アスカは言いようのない寒気を感じて、身体を震わせた。煌々と蛍光灯が輝いているし、少々西日よりだが窓から日の光も入る。絶対的な光量も、室内温度も十分にあるのに、何故だろう? こんなにも肌寒くて、薄暗く感じるのは。
 覚えがある、感覚だった。自宅に帰れば、いつだってこんな風に肌寒いのだから。迎える人のない部屋は、どこまでも冷たい。それでも自宅となれば、多少は自分のテリトリーであることからの安心がある。だか、ここにはそれがない。ここは碇シンジのテリトリーであって、惣流・アスカ・ラングレーのそれではないのだ。
 こう言うときは気分を変えるに限るが、いかんせんカメの身となえば、TVの電源一つ、いじることができない。いや、TVリモコンくらいならなんとかなるかも知れないが、肝心のリモコンがテーブルの上で、手にすることができない。
『何よ、碇の奴! 気が利かないったらないわね!』
 プンスカ文句たれて見るが、答えがなくて………肌寒さが一層ましただけで。全部を甲羅の中に引っ込めて、アスカは震えることをこらえるしかなかった。


「ただいま」
『遅い! もーお腹ペコペコなんだから!』
 二十分かからず、シンジ必要な食材をそろえて戻ってきた。途端に、アスカの罵詈雑言がお出迎え。面食らったシンジであるが、元気の良いアスカの姿に、微笑んだ。
『何よ、何ニタニタしてるのよ、気持ち悪い!』
「………それはひどいよ、惣流さん………」
『いいから、さっさと用意しなさいよ、グズ!』
「………はい」
 何故だか、妙に機嫌が悪いようだ。ここは逆らわないに限る。いそいそと台所に向かい、準備を始めるシンジであった。
「あ、そうだ。もう少しかかるから、その間はTVでも見ていて?」
 言って、電源を入れ、リモコンをアスカの前に置いてやる。何でこれが最初からできないのかと、アスカが目で訴えるも、シンジには届いていないようだ。これ以上文句を言っても無駄と、アスカはTVに意識を向けた。彼女が欠かさず見ているのはニュース番組であり、今の時間だとあまり良いものは放送してないが、それでも無いよりマシである。
 益体もない番組を眺め、台所から聞こえる料理の音を聞いている内に、ふと気づいた。さっきまで凍えそうなほどだったこの部屋は、何時の間にか暖かく、居心地の良い空間になっていた。………ま、TVの力は偉大よね、と、アスカは無理やり自分を納得させる。
『早くしてよね!』
「分かってるよ」
『美味しいの作ってよね』
「………分かった」
『オムライスの中はチキンライスでなきゃ駄目よ?』
「………………分かった」
『ケチャップは多めにね?』
「………………………分かった」
『あ、あと私あんまり辛いの駄目だから、大根の葉っぱの方は使わないでちょうだい』
 あれこれ注文をつけている内に、シンジの反応が止まった。何事かと見てみれば、憮然とした顔でこっちを見返している。ドキリとした。
『な、何よ?』
 虚勢を張って睨んでやったら、無視してスーパーのビニールから小ビンを取り出してきやがった。にーっこりと、笑いながら、アスカの目の前に置く。
「お腹が空いて仕方ないみたいだから、これでもつまんでいてよ」
 へぇ、気が利くじゃない。そう誉めようとして、アスカは固まった。ビンにかかれているのは、商品名で。曰く、「栄養万点! 乾燥糸ミミズ!」である。
 ふざけるなと怒鳴り返そうとして、シンジの背中の怒りに気がついた。心なしか、包丁の音も荒かったりするから、この辺がリミットだろう。これ以上つついて、マジで糸ミミズを出されてはかなわない。
『う………もうちょっとだろうから、我慢するわ』
「そう? なんだったら、それでお腹を一杯にしてくれてもかわまないけどな」
『うう………それじゃ、あんたが可哀相だから、ハンバーグとオムライスを選んであげるわ』
 強がっていても腰が引けていた。もしもシンジがその気になったら、アスカの食卓には糸ミミズのみが並ぶことになりかねない。流石にそれは避けたい。なんとしても避けたい。
 こらえきれずに笑っているシンジの背中を恨めしげに睨んで、アスカはへそ曲げて甲羅に引っ込んだ。


 曲げていたへそも、上出来のオムライスとハンバーグには勝てなかった。意地汚いとも思わないでもないが、正直、カメの身では外見を気にしてはいられないと開き直って見せたアスカである。
「どう?」
『ん、まぁまぁね』
「そう、よかった」
 実際は、まぁまぁどころではない。きちっとアスカに食べやすいように切ってあるハンバーグもそうだが、オムライスもカメサイズに作り上げているのだから、シンジの料理のテクニックは相当のものだろう。
 ふと、胸落ちするものがあった。少々の軽口を叩きながらの食事に、気づけば驚くほど、落ち着き、安心している自分がいる。それは、アスカの今までの生活の中では考えもつかないことだった。
 とにかく、自分を良く見せたい。誉められたい。それが行動原則であり、食事はエネルギーの補給以外の何物でもなかった。だから、栄養のバランスが一番で、味は二の次三の次。それは、今でも変わらない考えなのだが。
「何だか、いいね」
『………え?』
「一人じゃない食事って、何だか暖かいなって………」
 ドキリとした。シンジの洩らした言葉は、そのまま自分の中にある本音と同じだから。でも、素直にうなずくのはなんとなく悔しくて。
『ま、私みたいな美少女と一緒に食べるんだから、当然と言えば当然よね!』
「………そ、そうだね」
 ふふんと、胸を張られても、カメには悲しいほど似合っていない台詞だった。そうと口にしないだけ、シンジはアスカの扱いに慣れたのかも知れない。悲しい、慣れだった。


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