甲羅の中にある福音

 原因が何だったのか? 今となってはどうでもいいこと。
 それが魔術であれ、奇蹟であれ、ヤバめな実験薬であれ、たどり着いた結末を思えば、文句を言うつもりはない。
 似ていながらまるで別で、その癖、根本がやっぱり同じだった二人は、あの騒動なくては永遠にすれ違ったままの、決して交わることの無い平行線だっただろう。
 今だから、思う。………あれは、きっと、神様が与えてくれた、僅かな福音だったのだろうと。
 何故なら、見つけてしまったのだ。あの小さな甲羅の中に見つけてしまったのだ。ずっとずっと探していたものを。
 この広い広い宇宙で、二人が幸せになる場所を。

福音の1 彼女と彼の事情

 第壱中学の名物………とまで言うと語弊があるが、何かと話題をさらう人物を上げよと問われれば、当事者を除いた全生徒&職員がある男女二名の名を答えるだろう。
 二人そろって、成績優秀、容姿端麗。人当たりも良く、礼儀正しく、非の付け所のない優等生たち。
 男子生徒の名を、碇シンジ。
 女子生徒の名を、惣流・アスカ・ラングレー。
 共に、2−A組所属の、オラが母校自慢の種である。この二人は、別段付き合っている訳でもないが、色々な委員、係りを掛け持つ関係で、割と並んでいることが多い。朗らかに笑いながら談笑している姿も見かけられるので、密かに付き合っているのでないかと、他の生徒たちに涙を流させたりしている。
 傍目から見れば、お互い憎からず想いあっているような二人だが、実際はどうなのか? まず、アスカの方からその胸の内を覗いてみよう。


「惣流さん、ちょっと教えて欲しい問題があるんだけど!」
「惣流さん、昨日の被服の課題で」
「惣流さん、今度のクラブ総会の草案なんだけど」
「ねぇ、惣流さん!」
「惣流さん!」
 廊下を歩くだけで、数多の声がかかる。そつなく、如才なく、全てをこなして歩み去るアスカの背にかかるのは、決まって賛辞と賞賛と憧れの声だ。控えめに微笑み、恥らってまで見せて、アスカは思う。

ほほほ、もーっと誉めなさい。私の優秀さは、こんなもんじゃないんだから!

 決して表に出さず、裏で蛇のような舌を出し、アスカはケケケと悪な笑いをした。どうやら、普段の彼女は特大の猫をかぶっているらしい。
 そう、私は凄いと、アスカはこっそりと胸を張る。誉められるのは快感だ。正直、私は賛美の声を聞くたびに、生きていることを実感する。性的なそれとは別の意味で、エクスタシーを感じているのだ。
 実に危ない台詞だが、それだけの賞賛を受けるべき努力を、アスカはしてきていた。元々、頭の回転が速く早熟であったが、現時点で大検さえ受かれば即、国立大学はおろか、海外の超一流大学へ入学可能な学力は、すべからく睡眠時間を徹底的に削った自己学習の賜物であり、日本語、英語、ドイツ語まで完全に話読書をこなすのも、入院一歩手前まで心身を削った勉学の成果だ。クォーターと言うことで持って生まれた美貌を、更に高めるべく、ファッションチェックは毎日欠かさない。如何にして人心をつかむかと心理学から流行のリサーチまで行っているのだから、桁が違う。
 プライド衛星軌道の見栄っ張り。それこそが、アスカの本性である。正直、とんでもねー。
 万人がアスカの優秀性を認め、尊敬と賛美を重ねると言うことが、文字通り彼女の生き甲斐であり、レーゾンデーテルである。
 だがしかし! と、アスカは誰にも気づかれずに、拳を握りこむ。かような努力の末に手にしていた地位を脅かす存在がいた。………誰あろう、碇シンジである。
 微かな微笑を浮かべながら教室に入れば、クラスメートの視線が自分に集まってくる。それが全員分でないことが、アスカには面白くない。1/3ほどの連中が、シンジを囲んで話し込んでいるのだ。何でも一番でなくては気のすまない彼女にとって、これは結構な侮辱だ。
 おのれ、碇シンジ、許すまじ! と、呪いの言葉を胸に秘め、アスカは席についた。途端、級友の女生徒たちがよってくる。
「ねぇねぇ、惣流さん。さっきの小テスト、問5の答えはなんだった?」
「え? ああ、確かX=2.5、Y=7よ」
 応じたアスカに聞いてきた女生徒だけでなく、クラスの大半が反応した。アスカと同じ答えだと喜ぶ者もいれば、違う答えだと肩を落とす者もいる。今、この瞬間、クラスの支配者は私! と、影で笑うアスカであったが、ぽろっと洩らされた声に唇を噛んだ。
「な、碇。碇の答えは?」
 どーしてそこで碇のトーヘンボクに聞くか!? 口にした男子生徒を脳内で滅殺して、アスカはゆっくりとシンジの方を向く。ちょっと困った顔していたシンジであったが、割とあっさり答えた。
「惣流さんと、同じ」
 これで答えが出たと言わんばかりに、教室が騒がしくなる。自分が答えたときには疑う者が出るのに、何故にシンジが答えると誰もが受け入れるのか? やっぱり敵だと、アスカは一方的な敵愾心を燃やすのであった。


 自分の答えで教室が騒がしくなることを、シンジは他人事のように見ていた。表面上は穏やかな笑みを浮かべながら、どうしてこの人たちはこんな程度のことで、ここまで騒ぐことができるのだろうと、真剣に考えてさえいた。
 シンジにとって中性的に整った容姿は、何の意味もない。ただ、清潔であることを心がけているだけで、後は何もしていないのだ。容姿を誉められる度に、内心で首をひねる。
 勉強ができると誉めてくれる人がいることも、別にどうでも良かった。勉強をしたくてしていた訳ではない。他にすることがなかったと言うのが本音だ。面白くないことに、頭の回転の速さや記憶力の良さは親譲りだったようで、さしたる苦労もなく成績は良かった。
 穏やかで優しいと、良く気が利くと、誰もが言うが、それだって実際は違う。他にどうしていいか分からないから、静かにしているだけなのだ。人の顔色をうかがうことに長けているから、気が利くように見えるだけなのだ。無感動で、無表情。そんな本性を表せば、排斥を受ける。それが怖いので、優等生を演じている。シンジにとって、ただ、それだけのことなのだ。
 だから、誰かを特別に想う気持ちもないし、これからもそんなことはないと考えている。シンジ自身、アスカとの仲を噂されていることは知っているが、別段の感慨はない。強いて言えば、相手とされているアスカには少し迷惑をかけているのかな、と、その程度だ。
 見目の良い、けれど硬い硬い殻にこもり、無風無波無色の世界にシンジはいた。


 ホントにもーやんなっちゃう! とは、今のアスカの本音だ。放課後、理科室に教材を運び込んで整理するなどと言う雑用を一人でこなしていれば、愚痴の一つもでようものだ。
 普段なら口八丁と、僅かな子供騙し以下の色仕掛けで手伝う人手をGETしておくのだが、今回は依頼してきた相手が悪かった。理科教員の赤木リツコは、英語教員にして担任である葛城ミサトと並び、この学校でアスカの本性を知る、たった二人の人間だった。アスカを幼い頃から知っているだけに、握られている弱みも数多い。普段は頼りになる教師であり姉代わりなのだが、こう言った雑用を押し付けられるときには話が別だ。あんの、行かず後家め! と、聞かれたら人体実験されちゃうようなことを考えつつ、アスカは黙々と教材を片付けていた。
「あら、もう終わり? やっぱりアスカは優秀ね」
 からかうような、感心したような声を出して、リツコが準備室から姿をあらわした。頬を膨らませるアスカに笑いをこらえながら、プレゼントだと、リツコはキャンディーを二つ手渡した。赤と青のそれを掌で転がしながら、アスカが問う。
「何これ?」
「お駄賃よ。ご苦労様」
「………子供扱いしないでくれる?」
「初恋を済ませたら、そうしてあげるわ」
 この舌戦はリツコの勝ち。コミュニケーションとしてはいささか乱暴だが、これも付き合いの長さだろう。双方ともに、楽しんでいるのだ。
「今日はもういいわ、ご苦労様。アスカも早く帰りなさい」
「はーい」
 書類と教材のチェックをしながら、リツコ。雑用から開放される喜びもあらわに、アスカは鞄を抱えて理科室を出る。
「あ、そうそう、アスカ?」
「んー?」
「さっきのキャンディー、食べるなら一個づつになさい。間違っても一辺に食べては駄目よ」
「………何よ、それ? 変な副作用でもあるんじゃないでしょうね?」
 背にかかった不可解な言葉に眉を寄せるが、仕事に集中してしまったリツコから答えはない。こーなると火事が起きても気づかないことを熟知しているアスカは、肩をすくめて歩き出した。


「あら、アスカ、今帰り? 気をつけてねー」
「はい、葛城先生。失礼します」
 廊下でアスカとすれ違う度に、ミサトは背筋にゾクゾクと寒気を覚える。アスカの本性を知っている身からすると、かように丁寧な挨拶は気色悪いのだ。もっとも、良く知るからこそ、アスカの意地っ張り&見栄っ張りを可愛いと思いこそすれ、止めさせようとは思わないのだが。
 頭をかいて苦笑して、はたと気がついた。自分が抱えている書類の内、何枚かはアスカに渡すプリントだったのだ。うかつな自分を情けなく思いながら、追いかけようと踵を返して、ミサトはそこにシンジを見つけた。
「あら、シンジ君」
「失礼します、葛城先生」
 折り目正しいシンジの返事に笑い返して、ふと、ミサトは彼の自宅が、アスカのアパートと同じ方向だったと気がついた。使える者なら親だろうが、赤の他人ですら使うことを躊躇うような葛城ミサトではない。
「シンジ君、すまないけど一つ頼まれてくんない?」
「はい、何でしょうか」
「このプリント、アスカに届けて欲しいのよ」
「惣流さんにですか? 申し訳ありませんけど、僕は彼女の住所を知らないんです」
「あ、だいじょぶだいじょぶ。アスカ、ついさっき校門の方に向かったら、すぐに追いつけるわ。それに、あなたたちの家って方向同じなのよ」
「………分かりました、お預かりします」
「ありがと、シンジ君」
 素直な子って好きよと、教師にあるまじきことをのたまって、ミサトはプリントを手渡した。
「それでは失礼します」
「ん、よろしくねん」
 ひらひらと手を振ってシンジを見送って、ミサトは職員室に向かう。この些細なお使いが、アスカとシンジの運命を大きく変えることになるとは、露ほども考えていなかった。


 それなりの上機嫌で、アスカは帰り道を歩いていた。キャンディー二つと言えど、甘いものを貰えたのが嬉しい。さて、どっちから食べようかなどと埒もないことを考えながら、アスカは夕暮れの公園に足を踏み入れた。
 自宅までのショートカットになるこの公園を、アスカは気に入っていた。街中と言うこともあり、貴重な子供の遊び場なのだが、意外なほど緑が多く、景観がいい。こうした夕方など、それなりにムーディーだ。
 赤、青、赤、青。考えていても仕方ない。大した大きさでもなし、両方一辺に口にして、味を混ぜたり比べたりするもの良かろうと、アスカはキャンディーの包み紙を剥ぎ取って掌に載せる。誰もいないことは先刻承知なので、宙に放り投げて口でキャッチしようなどとはしたないことを思いついた。
 後で思い返す度に、アスカは自分の愚かさに穴掘って隠れたくなる。キャンディー二つで浮かれたこともそうだが、普段、自宅の中以外では絶対にしないような、本性を見せる真似を公園でしようとしたのは、まさに一生の不覚だった。
 風向き良し、速度良し、角度良し。きちんと確認して、アスカは手首を叩くようにしてキャンディーを放り出して。
「惣流さん?」
「ふが!?」
 ゴックン!


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