あるいはこんな物語

エンディング
〜そして今は一瞬の日常〜

 少女が登校する。

「あー、ガッコ行きたくない………」
「何言ってるのアスカ! ほら、しっかり歩く、歩く!」
 ………元気よね、ヒカリって。どうしてあんなに元気なのかしら? 今朝は同じ物を食べたって言うのに。………さらには鈴原の分までお弁当を作ってるんだから………ホント、よくやるわ。
 ………お弁当、作るのって結構大変よね。たまに作る位じゃよくわからないけど、毎朝毎朝ちゃんと栄養のこととか彩りとか考えて………シンジの奴も、あんな風に色々やってるのかなぁ? ………毎日お弁当が美味しいのって、あいつの、優しさ………なのかな?
「アスカ? ………どうしたの、顔赤いわよ?」
「な、何でもない!」
「そう? ………も・し・か・して、碇君のこと考えてたんじゃないの?」
「ち、ちがっ!」
「ホント? ………昨夜はすごかったもんね。いきなり抱きついてきて『シンジぃー』だもん」
「ヒーカーリー! だからあれは誤解だって、もう何度も言ったでしょ!」
「誤解ねぇ………それじゃあの寝言はなんなのかしら?」
「何よ、寝言って?」
「『愛し………』」
「わぁ! そこまでぇ!!」
「碇君が聞いたらなんて言うかしら?」
「………………お願いヒカリ、堪忍して」
「じゃ、コージコーナーのストロベリーシャンテリーで手を打ちましょ」
「………はい………」
 まったく、ヒカリったら。………やだ、意識したら、頬が火照ってきた。違う! あんな奴なんて、どぉーだっていいんだから! ………シンジなんて………どうだって………いいんだから。
 ………シンジ………好きだって言ってくれた。私だけが好きだって。………愛しているって。………言ってくれた。………はっ?
 違う違う、ちっがぁーうううぅぅ!! あれは夢、ゆ・めっ! あくまでも夢であって、現実じゃないんだから! ………現実じゃ………ない。現実であるわけない………シンジが、あのバカシンジがわたしに告白するなんて。そんなこと、冷静に考えるまでもなく、地球が砕け散っても………ないわね。

『アスカ………愛してる』

「………アスカ?」
「何でもない! 何でもないってば!」
 あああ、顔が火照る、止まんない! ………全部、全部あのバカのせいだ! ぜぇんぶ、あいつが悪いんだ! ………いよっし、学校で殴る! 決めた!
「アスカ?」
「さ、行きましょ、ヒカリ!」
「う、うん………」
 うん、殴るって決めたらすっきりした。………でも。

『僕はアスカの側にいるよ………アスカが望む限り、ずっと』

 ………………………はぁ。
「やっぱ………ガッコ行きたくない………」

 そして迷える子羊が一人登校する。


 少女が登校する。

 夢………睡眠中に見る非現実な錯覚、または幻覚。簡単には実現しない大きな望み。………それだけのこと。………なのに。

『………レイ………』

 思い出すだけで、鼓動が高まる。体の奥から暖かな何かが溢れてくる。………碇君。名前で………レイって呼んでくれた。あの人に呼ばれても………他の誰に呼ばれても、こんな感じはなかったのに。
 ホームに着いた電車に乗る。利用者の少ない、閑散とした車内が今日は違って見えるのは、何故?

『レイ………愛してる………誰よりも、ずっと!』

 掴まっていた手摺にぼんやりと映る自分。………頬が、赤い。それだけじゃない、体温が上昇している。これも碇君がくれた物。………幸せの欠片。
 わかっている。あれは夢。………決して現実になり得ない、幻でしかない。どれだけ幸せでも………どれだけうれしくても………どれだけ望んだとしても、夢は夢でしかない。………夢でしかない。
 カーブにたどり着いた車内が、揺れる。手摺を持つ右手に力を込める。白い………誰よりも白い手。それだけじゃない。蒼い髪、紅い瞳。………私が、人と違う証。
 幸せ? ………うれしい? ………望み? ………そんなもの、知らない。知らないはずだった。何故なら………何故なら私は道具。それ以上でもそれ以下でもない、ただの道具。………今は………今の私は?
 幸せって何? ………少しだけわかる気がする。うれしいって何? ………少しだけわかる様になってきた。望み………私の望み。碇君を護ること。そして………碇君と………一つになりたい。

『僕は、レイの『居場所』なるよ。どんなときも側にいて、何があっても、君を護る。………例え世界の全てを敵にしても、僕はレイを護ってみせる!』

 頭の中で、何かが転がっているよう。鼓膜と心臓がつながってしまったみたいに、鼓動が響く。
 ………………………………………………………………………………碇君。
 ………あ。気がつくと、もう電車は目的駅のホームに滑り込んでいた。ドアが閉まるギリギリに、ホームに飛び降りた。改札を抜けて、通りを歩く。
 いつの間にか繰り返されるだけの毎日が、変わった。僅か一欠片、それこそ取るに足らないくらい小さな………小さな欠片、幸せの欠片が………私を変えた。………うれしいと言う気持ちを、知った。教えて貰った。………碇君に。
 ………今日、教室で会ったら、私………碇君に会ったら………どんな顔をすればいいの? ………何を言えば………いいの?
 ………碇君。………シンジ君って………呼んでも………いい? ………碇君。

 そして迷える子羊が二人登校する。


 少年が登校する。

「………………はあぁぁぁ」
 ため息が止まらない。………どうしてあんな夢を見たんだろう。………僕、欲求不満なんだろうか? あんな………自分勝手な夢。………良い夢だったな。じゃなくって!
 綾波ともアスカとも結婚しているなんて………重婚って犯罪なんだよな。結局、僕は夢の中でも優柔不断で意気地がないわけだ。………情けない。
 小脇に抱えた二人分のお弁当箱を持ちかえる。………アスカ、今日はイインチョーがお弁当作ってくれたかも知れないな。でも、もしそうじゃなかったら、何を言われるかわからないし。………あれ?
 ………僕は何を考えているんだろう?いつの間にかアスカのご機嫌を伺っている。冷静に考えてみれば、僕とアスカの立場は対等なはず。訓練時間では負けてるけど、実戦経験は僕の方が上だし、シンクロ率だって、訓練時間からの伸び率を計算すれば、僕の方が上だ。………大学は出てないけど、料理洗濯その他家事一般に置いて、僕はアスカの何倍も上だ。………僕がアスカに下手に出る必要なんかないじゃないか。

『わたしが………あんたを幸せにしてあげる』

 ………アスカ。悔しいな、共同生活のはずだから僕ばっかりが家事をする必要なんかないけど………ないんだけど、アスカの笑顔って………可愛い………から。あの笑顔のためならって………思っちゃうんだよな。

『シンジがシンジである限り、わたしはシンジしか愛さないわ』

 あ………顔が熱い。みっともないけど、止められないから仕様がない。
 ………アスカが………僕が家事をして、お弁当作ってアスカが喜んでくれるなら、それでいいや。もともと料理とか嫌いじゃないしね。………料理って言えば。

『お料理………まだ途中なのに………』

 うわぁーーーーー、思い出しちゃた! ………考えないようにしてたのに。考えると………思い出すと、何もできなくなる。………お味噌汁煮こぼしたのと、ペンペンのお魚を消し炭にしちゃったの、ミサトさんに見つからなかったのがせめてもの救いだよ。もし見られてたら、何を言われるかわかったもんじゃない。
 立ち止まって空を見上げてみる。排気ガスの少ない朝の空は明るくて………何だか綾波の髪の色みたいだ。………綾波。

『あなたの………ためだもの………』

 あああ、僕って奴は! ………頭を抱えてしゃがみ込む。落ちつけ、落ちつけ、あれは夢だ。現実であるはずがない。………綾波が………あの綾波が、エプロン着けて料理してて、僕のことを『あなた』だなんて………なんて………どうして夢だったんだろう。………あ、違う、そうじゃない!
 とりあえず靴紐を直すふりをする。そうでもしないと、突然座り込んだりしたことが、恥ずかしくて仕様がない。………こう言うところが、他人の目を気にしているってことなのかな。立ち上がって歩き出す。………いつもはアスカが隣にいるから、今日はやけに静かに感じる。
 ………そっか、いつの間にか………本当にいつの間にか、僕の隣か斜め前にアスカがいることが、当たり前になっていたんだ。
 ………僕は………綾波を護りたいと思う。そして………アスカに側にいて欲しいって思っている。………これじゃ、二股みたいだ。そんなつもりないのに。
「………………………はぁ」
 僕………いったいどんな顔して二人に会えばいいんだろう?

 そして迷える子羊が三人登校する。


 その日………第三新東京市に存在する、ごくありふれた普通の中学校「第壱中学校」の二−Aは、穏やかであるべき朝のひとときを、穏やかに迎えることができなかった。
 二−A在席の一女子生徒は語る。
「いつも通りだったんです。………彼が登校してくるまでは。まだ、四〜五人しかいなくて………彼女も、いつもみたいに窓の外を見ていたんです」、と。
 そう、少年が登校するまでは………世界は平穏という退屈な姿のままであったのだ。………だが、少年………碇シンジが中学生である以上、彼の登校を阻める物は、僅かに「使徒」と呼称される存在のみ。そして………使徒は現れなかった。
 時に午前八時十二分ジャスト。それが運命の鐘の鳴った時間。
 シンジが教室のドアをくぐったとき、いつもと違う反応をした少女が一人。綾波レイ、その人である。いつもなら、誰が教室に現れようが無反応。シンジであっても、例外ではない。それなのに、今日だけは違った。音か匂いかそれともオーラか? レイは挨拶もなく入ってきた者をシンジと判断し、振り返った。
 その瞬間、シンジとレイの視線が重なった。
「………………………………………」
「あ………えっと………………」
 ギクシャクと、油が切れた工作機械のような動きでシンジは自分の席に鞄を置く。レイはじっとその動きを見つめていた。心なしか、その視線の温度がいつもより暖かい。そう、約八度ほど。
「あー………と………」
 何度か視線をさませながら、シンジはレイに向き直った。
「お………おはよう、綾波」
 一瞬、何かガラスの割れるような音が聴こえたように、教室にいる生徒には思えた。レイの視線の温度が下がった。約十七度ほど。
「………おはよう………」
 声まで冷たい。………どうやらシンジが「レイ」ではなく「綾波」と呼んだのが気に入らないようだ。………それでも返事をしただけ、まだましなのかも知れない。………シンジ、ちょっとビビってる。
「………綾波?」
「………何?」
「………えっと………き、今日はいい天気だね………?」
 ………シンジ、意気地ないぞ。………無理ないけど。
「そう………」
 教室は異様なテンションに包まれていた。シンジとレイの会話自体、珍しいモノがある。だが、今回は何処か違う。シンジがいつもより、緊張している。レイがいつもより、対応が柔らかい。
 端から見ると呑気な天候の話題以降、言葉もなく二人は見つめ会う。徐々に教室に集まり始めた生徒たちも、二人を視界に認めた途端、固唾を飲んで隅に寄る。一人、また一人と集まっていくギャラリーをよそに、当の少年少女は、盛り上がっていた。

 ………碇君………レイって呼んでくれなかった。………当たり前。あれは夢。でも………呼んで欲しかった。………碇君? 真っ直ぐ、見ている。………何を見ているの? ………………私? ………私を見ているの、碇君? ………どうして、そんなに優しい眼で、私を見るの? まるで………夢の中と、同じ。私の………『居場所』………私を護るって言ってくれた………瞳。………碇君………碇君。

 ………綾波………澄んだ………とても綺麗な瞳。吸い込まれそうだ。でも、少しだけいつもと違う。いつもより………潤んでいる気がする。切なげで………凄い可愛い。まるで………夢と同じ様で。僕は何を考えているんだ? ………綾波………レイって呼んだら………怒るかな? 夢の中のように………微笑んで欲しい。きっと、夢よりも可愛いと思うよ………綾波。

 すでにギャラリー息を潜めて、かぶりつき状態。冷やかしの指笛を吹こうとした鈴原家のご長男様は、数名の有志によって簀巻きにされた。さらに相田家のご子息による記録撮影は、珍しくもクラス全員に認められ、優先的に良いポジションを与えられていた。
 呼吸すら止めたように、レイはシンジを見つめる。心なしか、頬が上気している。………余談ではあるが、この時のレイの横顔のカットを写真にしたところ、爆発的な売り上げを記録し、相田家のご子息はカメラの新調に成功したそうな。
 シンジは明らかに頬を染め、何か言いかけては言葉にならないと口を噤むことを繰り返す。………その可愛らしさは、このカット写真の購買者が男女同率であることが雄弁に物語っていた。これにより、相田家のご子息はノートパソコンのアップグレードに成功したそうな。
 さて、見つめ会って二人の時間が止まっても、現実の時間は無情にも流れていく。決して止めることはできない。………流れ流れて、川のように留めなく。いつか海に出会うために。まるで不思議な旋律のように………ただ、流れる。
 ゆっくりと、シンジの手がレイに向かって伸びる。それは無意識の行動か。レイの、その白い頬を目指してシンジの手は徐々に伸びる。レイは微動だにせず、少しだけ頬の朱を強くする。
 ここまで来ると、もうギャラリーも夢中。誰も一言も喋らず、見入っている。誰かが飲み込んだ唾の音が、ヤケに大きく聴こえる。後少し、もう少しでシンジの手がレイに触れようかというその時、流れる時間を司る女神が、最大級の悪戯を仕掛けた。
 そう、彼女の御登校である。
「いーい、ヒカリ? 余計なこと喋ったりしたら………許さないからね?」
「はいはい、わかったってば、アスカ。………………あれ? どうしたの、みんな?」
「何、ヒカリ?」
 入口で不審そうに立ち止まった、イインチョーこと洞木ヒカリの肩越しに顔を出したのは、言わずと知れた惣流・アスカ・ラングレー。
 親友の肩越しに見た教室は、いつもの通り。ただ、クラスメイトたちが皆、端によって自分の方をひきつった顔で見ている。窓側に目を向ければ、そこに、無意識に探していた背中があった。
「………………あ」
 ドキン! と擬音が付いたように、ヒカリには見えた。みるみるアスカの頬に朱がさす。………それは非常に危険な兆候に思える。何故ならヒカリには見えたのだ。シンジの背の向こうにいる、紅い瞳の少女が。
 ま………まずい。ひっじょーにまずいわ。と、言うイインチョー様の心の声も知らず、アスカはふらふらと教室には行っていく。視線はシンジの背中に釘付け。ターゲット・ロックオン。それ以外はアウト・オブ・眼中。
 ギャラリーの内、数名は予想される騒ぎのとばっちりを避け教室退避を始める。さらに数名は、もはやこれまでと全てを諦め、現実逃避を開始。………空がとっても蒼いそうな。しかし、相田家のご子息を筆頭とするほとんどのギャラリーはこの降ってわいた、ある意味では予想通りの展開に、胸ときめかせて見入っている。………よーするに、面白けりゃ後はどーでもいーのだろう。
 見慣れているはずの背中。今日は………少し違う? などと乙女ちっくなことを考えながら、アスカはシンジに近寄る。高まっていく鼓動を抑えながら、ゆっくりと。それは、まさに破滅へのカウントダウン。
 何か、と言葉を探すが、アスカには何と言っていいかわからなかった。一歩ごとに見つける言葉は、どれも使い古されているようで、つまらなく平凡に思えて、次の一歩で考え直す。もっと、もっと気の利いた、わたしらしい言葉をと、気がついたときは、もうシンジの背中は目の前だった。………手を伸ばせば、触れることのできる所に。
 シンジの背中………と意識した途端、アスカは自分が頬を染めていると自覚した。そして自覚したが為に、さらに顔に血が上る。自分で止められないからたちが悪い。ギココと、アスカの動きが止まる。
 二秒………五秒………十秒………二十五秒。息詰まる沈黙が続く。三十五秒………五十五秒………六十二秒。まだ続く。ギャラリーの内、数名の女生徒がぱたぱたと倒れる。………どうやらホントに息を止めてて、貧血起こしたようである。
「………………シ………シンジ………」
 ようやくアスカが体中の力を振り絞って出した声は、かすれていた。だが、まわりの何もかも忘れて、目の前の少女こそ我が世界と思い込みかけていた少年を、正気に返すバケツ水の代わりとしては十分であった。
 甘いムードに浸っていた少年は、僅か一ミクロン秒で硬直した。その変化に気づいたのは、彼の背を見つめる少女。気づかなかったのは、まるで夢の続きと言わんばかりに、彼の顔を見つめ続ける少女。
 ぐぎぎぎぎぎぎ、と油の切れたブリキ人形のように、音を立てない方が不思議なくらいの動きで、シンジは振り返った。ひきつったように凍り付いた、シンジの笑顔。………しかし今のアスカには、その笑顔が王子様のロイヤルスマイルに見えたりするから、恋する乙女の盲目ってすごい。
「………あ………アスカ………?」
「シンジ………あの………おはよ………」
 頬どころか耳まで染めたアスカは………可愛いでやんの。普段、勝ち気で元気のいいアスカを見慣れている者にとって、この可愛らしさはまーさーしく、凶器。………シンジ、もう目を疑わんばかり。考えてみりゃ、そうかも知れない。出会ったときから頭ごなしに呼びつけられ、バカ扱いされ、挙げ句の果てに召使いほぼ同然。たとえそれが屈折した愛情表現だとしても、それに気づけないシンジにとっては拷問に等しい。………悲しい話だ。だからこそ『しおらしいアスカ』など、シンジにとって奇跡を通り越して死の宣告に思える。
「あ………えっと………お………はよう、アスカ………」
「………ん………」
 こくり、とうなずくアスカ。そのまま上目遣いにシンジを見てはさらに朱を強くして俯く。
 何かされるのでは、と恐れおののいていたシンジにも、ようやくアスカがいつもと違ってはいるが怒っているわけではないと理解できた。できた途端、シンジの脳裏で目の前で頬を染めて俯いているアスカと、夢の中のアスカが重なった。恐怖にひきつったその表情が、みるみる沸騰していく。
「あ………あの………アスカ………」
「………何よ?」
「そのさ………お弁当………なんだけど………僕、アスカの分作ってきたんだけど………その、余計だったかな?」
「そんなことない………そんなこと………」
「よかった………」
 ニッコリと微笑むシンジ。その微笑みがアスカを虜にする。少女は自分の胸がキュンと言う擬音を立てたことを自覚した。
「………シンジ!」
「何、アスカ?」
「その………お弁当………アリガト………」
「あ………………アスカ………………」
 ………可愛い………なんて可愛いんだ、アスカ………いつもこうだったら、どんなに良いだろう。少年が思うのも無理はない。今のアスカはそれほどに可愛いのだから。見つめ合う二人の間に甘く優しい空気が流れる。
 こうなってくると盛り上がるのは野次馬ギャラリーども。普段なら、アスカとシンジがこんな風に見つめ合うことなどない。それどころか某「トム&ジェリー」ように仲良く痴話喧嘩しているのだから。
 ギャラリーはユニゾンした。今こそ、今こそ生ラブシーンが見れる! と。が、もちろんそうそう甘い話は転がっていない。
 目を開けたまま、夢の続きに突入していた少女が、現実を認識したのである。
「………………………碇君?」
 その声は、いつもと変わりない静かな声であったが、シンジにとって死神の呟きに、アスカにとって極悪大魔王の囁きに聴こえた。そう、この時になって、ようやくアスカはシンジの向こうにいるレイの存在に気が付いた。自分から大切なシンジを奪い取る、終生のライバルに。
「………………ふわぁーああぁぁすとおおぉぉぉぉー!」
「………何、弐号機パイロット」
「どうしてあんたがここにいるのよ!」
「学校………だから」
「違う! そうじゃなくて、どうしてあんたがシンジの側にいるのか聞いてるのよ!」
「………あなたには関係ないわ」
「………言うじゃない?」
 それまで教室に流れていた、甘いラブラブな雰囲気はもはやイスカンダルの彼方。今、この空間を支配しているのは熱砂を思い出させる緊張。………ここは二−Aの教室のはずなのだが、何故か猛獣のオリの中にシンジには思える。
 見つめ合う………と言うか睨み合う二人の少女。その姿は、龍と虎。サンダとガイラ。ゴジラとビオランテ。ウルトラマンとゼットン。アムロとシャア。神威と封真。リナ・インバースと白竜のナーガ。ミサトとリツコ………えーと、それからそれから………ま、とにかく一発触発、ただではすまない、ここであったが百年目。
 もう、ギャラリーもラブシーンは諦めた。流石の無責任な連中も、この喧嘩の巻き添えは喰いたくない。何と言っても命に関わる。大半の者が教室から逃げ出す。しかし、それでも逃げ出さない豪の者は相田家の無責任大ボケ少年を胴元に、賭を始めた。真っ先に止めるはずのイインチョー様は、簀巻きにされていた鈴原家のご長男様を助け起こし、甲斐甲斐しく世話を焼いている。
「すまんなぁ、イインチョー」
「いいの………これも、委員長の校務なんだから」
「そっか、いつも熱心やなぁ」
「………………バカ………」
 ここだけ別空間。ま、それもいつものこと。
 睨み合いはヒートアップ一方。そろそろ周囲の空間に物理的被害が出始める頃か。
 この事態を何とかしようとシンジは考えるが、足がすくんで動けないばかりか、何も頭に思い浮かばない。ただ、どうしよう? どうしよう? と意味のない言葉の羅列を続けるのみ。………つまり、この少年に事態の収拾は不可能であると。
 アスカの放つ怒気が、炎のオーラに変わる。レイの放つ冷たい視線が、全てを滅ぼす魔光となる。もはやここは人外魔境。それでも、生徒たちはギャラリーモードを解かずにいるのだから、根性以前の問題かも知れない。
「………あの………二人とも………」
「………黙ってなさい、シンジ………」
「碇君………あなたは………私が護るわ」
「………あの………」
 もう声なんか聴こえちゃいない。この二人の喧嘩(そのレベルですめばいいのだが)が止まるには、十四分二十七秒を待たなければならない。………そう、担任教師がこの場に来るまでの時間を。………それで収まればいいのだが。シンジは頭を抱えた。
 こうして、少年たちの朝は過ぎていく。多少ドタバタしているが、これもまぁ、いつもと大した変わりがあるわけではない。
 ………こうしていると、チルドレンと言えどただの中学生に他ならない。そう、なんら変わる所などないのだ。
 もし、彼らが見た三種の夢。あの内の一つが未来を映した夢、予知夢だとしたら。………遠くない未来、現実になるとしたら、彼らはどうするのだろう?
 もし………彼らがそれを知ったとしたら、怒るだろうか? 呆れるだろうか? ………それとも笑うだろうか?
 未来は不確定であり、可能性である、と言ったのは誰だったか? 彼らの見た予知夢もそうなる可能性が高い、ただそれだけのこと。どのような未来になろうとも選ぶのは彼らであり、だからこそ決して悪い未来にはならない………そう思える。
「ふっふっふ………あんたとは、一度きっちり片をつけとかないとって思ってたわ………」
「………そう………よかったわね」
「ああぁ、二人ともぉ、止めてよぉ………」
 ………そう………だと………思うんだけど………な。………大丈夫かな?
 いや、まぁ、とにかくだ。選択の賽は彼らの手の中にあるが、それはあくまでも未来のこと。数限りない可能性の果ての話。彼らの不確定で、未完成だからこその数多の未来。その一つであるということだけ。
 だからこそ、今は他愛のないこの日常こそが彼らの選択なのだ。まるでお伽話のような、退屈で当たり前の生活。このありふれた一瞬が、永遠につながる。………それこそが真実なのかも知れない。
 だから………今は一瞬の日常。永遠に続く、一瞬の日常。
<Dreams Endless>
               水晶より
                  忘れたくない想い出に………

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