西側のB747、DC-10、L-1011、A300といったワイドボディー機の登場を受けて、ソ連政府は初のワイドボディー機の開発を決定する。ツポレフ、アントノフ、イリューシンの各設計局が計画案を練ったが、採用されたのはイリューシンの案だった。開発は70年3月、G.V.ノボジロフNovozhilovの指揮の元始まった。当初はIl-62を大型化し、機体後部にエンジンを4機装備する計画だったが、76年12月22日にモスクワのホディンスクKhodynsk飛行場で初飛行したプロトタイプは、主翼の下にエンジンを装備したオーソドックスなタイプだった。78年9月にはアエロフロートのモスクワ-ミネラルヌィエ・ボディ線で試験飛行を始め、80年12月26日、モスクワ-タシケント線で正式に就航する。また81年6月には東ベルリン線で国際線にも投入され、以降アルマアタ、ノボシビルスク、シンフェロポリ、ハンブルグ、ウィーン、プラハと活躍の場を広げていく。
当時のソ連では高性能のエンジンを開発できず、航続距離は4600kmと、Il-62を代替するには至らなかったため、長距離路線では依然としてIl-62が活躍した。このためモスクワからの直行路線はヨーロッパや中央アジア、中近東の都市に限られた。但し、経由便としても運用され、モスクワ-シャノン-ガンダー-ニューヨーク、モスクワ-タシケント-デリー-ハノイ-ホーチミンシティー、モスクワ-アルジェ-サル-サルバドル-ブエノスアイレスなど、気の遠くなるような長い路線にも使用された。
直径6.08mの胴体は上下で客室と貨物室に分かれており、ボーディングブリッジが未設置の空港に就航することを考慮して、貨物室には左舷に2つのエアステア(階段)が付いている。乗客はこの階段を昇ってまず手荷物を貨物室に置き、客室へ向かう。オーバーヘッドビン(荷物入れ)は窓際のブロックにしか付いていないので、持ち込み手荷物を少しでも減らそうという思惑かも知れない(今のロシアでは、誰かに持っていかれるかもしれないので、危なくて置いておけないが…)。通常の客室扉(兼非常口)は左右4つずつ、貨物扉は右舷に2つ設置されている。また、座席の後ろには小さな扇風機が付いていて、エアコンの噴出し口の代わりになっている。
製造はボロネシVoronezh航空機製造工場で行われ、量産初号機は1977年10月24日に初飛行した。フラップ、スラット、エンジンパイロン、尾翼はポーランドのPZLが担当した。1995年に製造が終わるまで103機のIl-86が世に送り出され、ロシアの航空会社を中心に現在でも運行されている。
2002年7月28日にはモスクワ・シェレメチェボ空港からサンクトペテルブルグへ向けて離陸したプルコボ航空のIl-86(RA-86060)が墜落し乗員14人が死亡。Il-86初の墜落事故となった。離陸直後、水平安定板が誤作動して機首が上を向き、コントロールを失ったのが原因だった。このフライトはフェリー(回航)フライトで、乗客は乗っていなかった。
Il-86は国内線において大量輸送に貢献したものの、長距離運行ができなかったことから、Il-62の代替機はIl-86をベースに開発されたIl-96の登場を待つことになった。ソ連崩壊後は航空運賃が高騰して需要が減ったことにより、多くの機材がストアされている。現在は旧ソ連の航空会社数社によって運行され、ロシアの国内幹線で使用されているほか、好調なモスクワ発のチャーター便で頻繁に運行されている。またソ連以外では、中国新彊航空が3機購入したほか、中国北方航空、中国国際航空、グリーンエアー(トルコ)、パキスタン航空、Hajvairy航空(パキスタン)がリースで短期間運行したのみである。
主要モデル緒元