第5章
MACV−SOG(南ヴェトナム軍事支援米軍司令部/特殊作戦部隊

 陸軍特殊部隊、海軍特殊部隊SEAL、海兵隊リーコン(偵察部隊)および空軍・第90特殊作戦飛行隊の各特殊作戦部隊の指揮・統制の統括をはかるため、1967年11月MACV−SOG司令部がサイゴン近郊のタンソニェット空港内に設立された。
 このSOGは米国防省とCIAの直接指令で動き、陸・海・空軍・海兵隊の各特殊部隊から選抜された隊員が、SOG司令部の直接指揮下で任務の期間だけ共同作戦をした。その作戦内容はMACVにも原隊である特殊部隊にも知らされなかった。
 MACV−SOG司令部の下には北部、中部、南部の各指揮・管制本部(CCN,CCC,CCSと呼ばれる)が置かれ、前方作戦基地(FOB−1/2と呼ぶ)を指揮したが、このSOGは対マスコミ向けに頭文字を取って「調査・観察グループ」というカバーネームで呼ばれた。この各軍統合の特殊作戦は1964年1月より立ち上がっており、最盛期には2000名の米特殊部隊員と8000名のCIDG隊員が参加しており、最小だった南部の指揮・管制本部でも、17の偵察チーム(RT)がいた。

各指揮・管制本部と前方作戦基地(FOB)の所在地は次の通り

北部指揮・管制本部(CCN):ダナン
3カ所の指揮・管制本部の中では最大規模で、作戦地域はラオスと北ヴェトナム。

中部指揮・管制本部(CCC):コントゥム
作戦地域は南ヴェトナム、ラオスおよびカンボジア。

南部指揮・管制本部(CCS):バンメトゥート
3カ所の指揮・管制本部の中では最小の規模で、作戦地域はカンボジア。

(所在地)
FOB−1:バンメトゥート
FOB−2:コントゥム
FOB−3:ケサン
FOB−4:ダナン

 基本的に1個偵察チームは3名の米軍特殊部隊員と9名のモンタニヤードかヌン族のCIDG隊員で構成されるが、作戦任務によっては5名のべいぐんと13名のCIDG隊員で構成される場合もあった。
 これらSOGの特殊作戦については、現在でもなお極秘扱いで情報公開はされていない。公式には、1965年から1972年の間に計2675回の越境偵察作戦が行われ、103名の米軍特殊部隊員戦死したという。

第6章
プロジェクト・フェニックス(フェニックス計画

 1968年、共産側のテト(旧正月)攻勢後の3月にパリ和平会談が始まり、アメリカ議会ではヴェトナム戦争を南ヴェトナムに任せるヴェトナム化政策が決定した。
 ヴェトナム戦争の早期終結を計るため、CIAはフェニックス計画を立案し、SOG部隊の志願者でPRUを秘密裏に組織した。このPRU(地方偵察隊というカバーネームのベトコン転向者のスパイ)を使用し、純粋な軍事作戦とは異なったベトコン幹部と支持者の暗殺である
 この秘密部隊の任務は、純粋な軍事作戦とは異なり「テロにはテロで対抗する」もので、ヴェトコン幹部と支持者の脅迫、誘拐、そして暗殺である。志願資格はヴェトナム・ツアー(ヴェトナム従軍)2回以上のヴェテランで、機密保全の完全な兵士が選ばれた。
 フェニックス計画はマスコミに知られる1968年から1970年まで続けられた。ヴェトコンの手法を逆手に取ったこの計画はヴェトコン組織をほぼ壊滅させ、活動停止にまで追い込んだ。元CIA工作員の推定では、約40000人を殺害したという。

第7章
オペレーション・アイボリー・コースト

 別名・北ヴェトナムのソンタイ捕虜収容所奇襲作戦は、1970年11月20日深夜に行われた。600人の志願者から選抜された53名がブル・サイモンズ大佐の指揮下で、同年9月9日から始まったコードネーム・バーバラと呼ばれるソンタイ捕虜収容所の原寸大モックアップを使った訓練を受けていたのだ。
 だが、この米軍捕虜救出作戦は結果的に失敗した。彼らが攻撃をかけた時、捕虜はすでに移送されていたのだ。戦果は間違っておそった隣の北ヴェトナム通信学校のソ連軍人と北ヴェトナム兵、そして収容所の警備兵を全滅させたくらいで、情報収集能力の不足がこの作戦を空振りに終わらせた。
 この作戦の期間後、当時のニクソン大統領から作戦参加者全員に銀星章が配られ、作戦は失敗したが捕虜の士気高揚に役立ったと発表された。しかし、当時の米軍捕虜はこんな行動しかとれない政府に失望したといっている。

第8章
ヴェトナム戦争の終結と秘密作戦部隊

 アメリカ本土の反戦運動の高まりとともに、1970年より米軍は暫時撤収を始め、1973年1月のパリ和平休戦協定でアメリカのヴェトナム戦争は公式には終わることとなる。
 最後の特殊作戦は1973年3月12日で、後の作戦は南ヴェトナム軍に引き継がれるが、南ヴェトナムという国家は1975年に北ヴェトナムの占領で消滅した。CIDG攻撃隊員の損害は不明。米軍撤退後も、山岳少数民族たちはヴェトナム新政府と1992年まで戦い続けた。
 パリ和平協定に従い、1973年3月末に最後の米軍は撤退し、公式にはヴェトナムにはアメリカ軍はいない事になっていた。だが実際には、南ヴェトナムが崩壊する1975年4月までアメリカ大使館の陸軍援護部隊として第69統合整備・支援中隊のカバーネームの下で、秘密作戦部隊がサイゴン陥落の日まで活動した。その内容はCIAの管理下でラオス、カンボジア、北ヴェトナムへ進入する秘密作戦であり、14の地上戦闘チームそれぞれが2名のアメリカ人に4名の現地人で編成され、そのほか倉庫、兵器庫、配車センターに所属する非戦闘員で構成されていた。この期間の戦死者はMIA(戦時行方不明者)扱い、あるいは軍籍から除籍されていると思われる。
 ヴェトナムでの通常戦の陰に隠れてしまったが、CIAの管理下で米軍特殊部隊が中心となったのがラオスの秘密戦争で、パテト・ラオの共産軍に対抗するためCIAと軍事顧問はラオス王国軍の他にメオ族を中心とした30000人の反共特殊部隊を訓練し編成した。補給はエア・アメリカというカバーネームのCIAの航空会社が行った(現在、エア・アメリカは民間に売却されている)。
 1975年に隣国のカンボジアと南北ヴェトナムが統一された影響で新生ラオスが誕生し、アメリカはラオスからも撤退したが、その影でCIAの協力者約80000人が処刑された。

終章
特殊部隊の復活

 ヴェトナム戦争後、カーター政権の人権外交の元でCIAは骨抜きにされ、特殊部隊は縮小化された。主任務が不正規戦志向であるグリンベレーは、その行動や作戦に常に秘匿性がつきまとう。このため前線においても正規軍とは別行動を取り、命令系統も独自のラインを持つ。このためグリンベレーはヴェトナム戦争末期には米陸軍の内部においても孤立した存在となってしまい、戦争終結後は兵力縮小の一途をたどったのである。これが1980年のイラン人質事件の救出失敗につながったといわれている。
 しかし、レーガン大統領の時代となって、CIAと特殊部隊は復権した。
 「強いアメリカ」を標榜するレーガン政権は、軍事強硬路線の具体的な展開として第1特殊作戦部隊を再編した。これは単に特殊部隊の復活にとどまらず、特殊部隊をこれまでの大規模紛争から末端レベルの紛争形態に対処できる「不正規戦専門部隊」として位置づける事を明確にしたものであった。
 東西冷戦の終結により、世界大戦記簿の戦争の危機は遠のいたといわれる。しかし、世界が二極化から多極化へと移行するにあたって、これまで大国のイデオロギーの枠に押さえ込まれてきた民俗・宗教問題をはじめとする紛争が、世界各地で噴出してきているのは周知の通りである。
 冷戦時代のソ連軍によるアフガン侵攻は典型的な不正規戦の手口によるものであったが、冷戦後の現代はまさに不正規戦の時代を迎えているといっていいだろう。米国防総省は、これをLIC(低烈度紛争または低強度紛争と訳される)と定義しているが、このLICの時代においてこそ、その性格や機能を更新しながら、特殊部隊はより重要性を増してゆくに違いない。

SOFTBANK Publishing 「ヴェトナム・ウォー」小林源文 より抜粋