水原秋桜子

年代できごと
明治25年(1892)東京市神田区猿楽町に生まれる。
大正7年(26歳)「進むべき俳句の道」によって俳句への興味を覚え、以後「ホトトギス」の購読を始める。12月、東大医学部を卒業
昭和20年(53歳)4月空襲により自宅及び病院を焼失、八王子に疎開。
昭和29年(62歳)11月杉並区西荻窪1丁目(現西荻南4丁目)に新居を建て、転居。
昭和56年(89歳)逝去
中学校・高校の教科書はもちろんのこと、文学史にも必ず登場してくる重要な俳人である。
西荻窪、荻窪を詠んだ俳句が多くある。昭和29年から西荻窪に住み、そこがついの住みかとなった。
西荻窪の家の一軒おいた隣に北原白秋の家族が住んでおり、同じ番地で北原と水原だからいろいろ混同されたり迷って訪ねて来る人があったりした。
小さな孫がいつも連絡係りとなった。


  杉並区水田のこりておぼろなり

現在杉並区には水田はないが、昭和30年頃は8600アールの水田があった。


  ふと迷ふ来馴れし辻もおぼろなり

住宅地の道は複雑で迷いやすい。西荻窪から荻窪駅にでるとなると南荻窪の住宅地を中心に歩くことになる。
商店が少なく問うすべもなく迷い歩いて、やっと気がついた時は全く方角の違ったあたりに来ていたりした。
心細い時に聞いた地虫の声は不思議に心に残っている。同じ様な生け垣などを巡らした静かな住宅地の暮れ方の景である。


  菓子買ひに妻をいざなふ地虫の夜

春の終わり地虫の鳴く頃になると、界隈にあたたかに夜霧がこめて、散歩に出たくなる。
八重桜が咲き残っていて道ばたに枝をたれていた。 七,八町歩くと荻窪駅に出ることが出来て、その辺には割合に佳い洋菓子を売っていた。 八王子では見ることも出来なかった菓子である。
珈琲をいれてこれをたべるのが楽しみで、度々妻を誘って買いに出た。丁度よい散歩になった。
(地虫:こがね虫科、くわがた虫科の昆虫の幼虫。土の中にいて草の根などを食う。)


  辛夷咲き善福寺川縷(る)のごとし

善福寺川を詠んだこの俳句(昭和31年作)について「水原秋桜子」(藤田湘子、桜楓社・昭和55年)には次の様にある。

辛夷が咲くと本当に春が来たように思う。
白い花が葉の萌えるより早く枝にびっしり群がって咲くと空もようやくかすんだように鈍い白銀色になってくる。いつの間にか咲いたといった感じの花である。
そういうある日作者は句材を求めて善福寺川のほとりを歩いた。町並みに挟まれてどこまでいっても川幅はひろくならず窮屈そうに流れていく。
”縷の如し”は糸の用に細く続くさまをいったものである。善福寺川の特徴を的確にとらえている。
綺麗でもない川の表現にこうした美しい表現を用いた点も彼らしい。


その他の善福寺川を詠んだ句

  額(がく)萌えぬ善福寺川を隠さむと

  蜻蛉うまれ善福寺川池をいづ
以上 萩原茂著 「荻窪界隈文学散歩 2」より抜粋





善福寺川