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ネットで拾ったそれっぽい話
ごちゃ混ぜで

「本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向に導かないし、 高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また人がそれまでやって きた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されている酷い大嘘の犠牲者になっているのである」

――『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン(文春文庫)


http://aa.2ch.net/test/read.cgi/mona/1023634379/200-232

泣ける話ではないかもしれませんが… 私がホテル勤めをしていた頃の話。

ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
一通りの祝いの言葉の後に、

自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。

私はその後は仕事になりませんでした。
ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。


前韓国大統領金大中のエピソード

日本のご老人とのとある会食の席で、彼らに席を案内する際
韓国人通訳が「老人はこちらに」と言ったら、
日本語で「ちゃんとお年を召した方、とお呼びなさい」と叱った。


お前らのジーちゃんの戦争体験 その2
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/army/1036647391/
26 :名無し三等兵 :02/11/09 10:51 ID:???
消防のときミリタリーブームでプラモをよく作った。
日本ものでは戦闘機・戦艦をたくさん作りドイツは戦車を棚の上に並べて悦に浸っていた。
ある日遠方から爺さんが来てそれを見て
「おお、戦車好きか。日本のはどれだ?」と聞かれたので松本零士の戦場漫画シリーズから知った日本戦車の弱さを3分ほど聞かせ
「そんなボロいのいらない」と締めくくると「そうか、そうか」と言いながら笑っていた。
数年後爺さんの葬式の席で戦友だった方から戦車兵だったことを聞き、95式の隣にたたずんでいる爺さんの写真を見たとき戦争に行ってたことすら知らなかった自分の情けなさに涙が出た。


ウチの父方のじいちゃんも農家の四男坊・入り婿・終戦時29歳なのに上等兵輜重部隊所属と典型的な徴兵。
そのじいちゃんに「輜重兵が兵隊ならば。蚊やトンボも鳥の内」なーんて言わないで良かった・・・。
終戦間際の昭和20年5月に運良く大陸から帰ってきていたじいちゃん。
気の強い当主のばあちゃんと、俺にとってものすごく怖かったウチのオヤジを田んぼの中を泣かせながら追っかけたという曾じいちゃんと一緒に住んで寡黙に働いたじいちゃん。
俺の息子が生まれた二ヵ月後に逝ってしまったが、息子を見せたら呼吸器に覆われた 顔を嬉しそうに頷かせていた顔が忘れられない。


2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
   寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
   夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
   私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
   あんたらにわかるか?
   消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
   でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。


彼は調印式が行われる前日、三笠が、どんな様子になっているか、
気になって自分自身でそれを確かめるため、横須賀に赴きました。
その時のことを元帥はこう述べています。

「---管理人の話では、真鍮や銅の付属品は戦争中に軍需資材とし
て、全部取り除かれたとのことだった。そのほかに歴史的価値ある
部分がどさくさに持ち去られた跡もみられた。東郷元帥を尊敬する
ものの一人として、昔から有名なこの軍艦が、これ以上荒らさるべ
きでないと思い、私は米海兵隊に命じて歩哨(営門などの警戒・監
視に任ずる兵)を立て、三笠を破損したり、歴史的な物品を持ち去
ることを防ぐことにした…」

「この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい…」

「どういう処置をとれと差出がましいことはいえないが、日本国民
と政府が全世界の海軍々人に賞賛されている東郷提督の思い出をなが
らえるため、適切な方法を講ずることを希望する…」

「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基
金に私の名で寄付させてほしい…」〈「文藝春秋」昭和三十三年二月号)

 これ等に刺激されて、日本人の間にも三笠保存の動きが急速に盛りあ
がり、昭和三十三年十一月三笠保存会設立準備委員会の創立となりまし
た。ニミッツは米海軍を督励して、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲
渡し、スクラップにして得た全約三千万円を三笠の復元に充てさせました。
かくして三十六年五月、復元は実を結びました。これが今見る「記念艦三
笠」の姿であります。

戦艦三笠というのはご存知の方も多いかと思いますが日露戦争を勝利に導いた日本海海戦の旗艦でした。
元帥というのは、マッカーサーでしょう。


気がついたと言うことは大進歩だ。
で、気がついたから何をするか。今度はこれを考えないとね。
まあ、人生は長い。これからが本番だ。

今日は、残りの人生の、最初の一日。


私の大学時代、日本語ぺらぺらのドイツ人教授がいた。経済学部だったが。
その彼の口癖ともいえたのが、

「オレの国と、おまえらの国。世界を2回もあっと言わせたんだ。自信持てよ。
オレたちがまた手を組んだら、世界はしょんべん漏らすぜ」

というもの。そして、近くに学生がいると、拳を腹部にかるーく当てる。
普段はいたって紳士なのだが、この言葉を言うときだけはわざとこういう口調になる。
なんというか、日本というものが不思議と誇らしく思えたものだ。


花蓮という台湾東部の町がある。9年前、台北から軽い気持ちで、友人と連れ立って足を伸ばした。

駅前から程近い宿の夕べ、暇を持て余した僕たちは、夕涼みがてら散歩に出かけた。

名物のさつま芋のお菓子の店を冷やかしたり、ワンタンのおいしいお店で小腹を満たしながら、1時間も歩いただろうか。陽は既に落ちかけ、涼やかな風が心地よく吹き抜けていた。戦前の日本家屋が夕陽に深く染められ、僕は子どもの頃に戻ったような錯覚をしていた。

宿への帰り道、友人が、「おい、ちょっと見てみろよ」と、ふいに声をかけた。どうも印鑑の店らしい、日本語で、「印鑑スグデキマス」と書いてあった。
友人は、「ちょうどいい。ここは大理石が名産なんだ。造ってもらえよ」と言い、僕の腕を引っ張った。

店では、中年の店主らしき人が、汗を拭き拭き、刻印の作業に打ち込んでいた。友人が台湾語で声をかける。店主は僕に微笑みかけ何ごとか尋ねる。僕は日本語で答えた。
「すみません・・・印鑑が欲しいのですが」

店主の表情が、何とも言えない笑みと、緊張を湛えた。やがて耐え切れぬように、
「日本人の方ですね」
「はい、そうです」
「日本人の方、いまは来ない。お父さん、私のお父さん、とても日本語じょうずだった。日本の、方、いっぱいお客さん、来ました。ハンコ、いっぱい、造りました」

僕は印鑑を注文した。大理石のよいものを選び、姓名印と、書斎印を頼んだ。店主は瞳を輝かせていた。

明日の朝、出立前に届けてくれると言う。宿の名前を告げると、
「ありがとう。お父さん、日本人にハンコ造ってあげられたこと、うれしい。私もいま、日本の人に、ハンコ造って、お父さんと同じことできて、うれしい」
店主の目はうるんでいた。

花蓮が好きになったきっかけは、この出会いからだった。


日本がその昔、パリの万国博覧会に出た時、茶室を作って手前を披露したんだけどそこに出展してたドイツの工具会社があって、社長が茶室を作る大工のノコギリの切れ味に驚愕して貸してほしいと頼み込んだそうだ。
大工は当然嫌がったが「絶対に使わない」という条件で貸したら、帰り際に、大工のノコギリを研究して作った試作品を10本ほどくれた。
で、持ち帰って周りからは「そんなの使えんでしょう」とか言われたそうだが、実は結構切れたんだとさ。ドイツ人はやはり侮れん。

フランス人は・・・芸者さんあまりの美しさにプロポーズする若者が殺到したとか(笑)


吉田満著「戦艦大和ノ最期」は本当に何度でも泣けます。
特に心に残ったのは大和乗り組みの臼淵大尉の詞ですかね。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」

…今の日本にも当てはまるのが、先人に対し情けなくて泣けますなあ。

初出の「戦艦大和ノ最期」は江藤淳著「落葉の掃き寄せ」(文芸春秋社発行昭和56年11月25日第一刷)の中に納められている。最近は文庫本もある。
(注)江藤淳氏とは、元慶応義塾大学教授であり、近年は妻の介護に疲れ、妻死亡後自らも倒れ、再起不能を自覚し、数年前に自裁して果てた人である。アメリカは日本での検閲をいかに準備し、執拗に実行したかを書いた著書「閉ざされた言語空間…占領軍の検閲と戦後日本」は今日の日本人必読の書である。江藤氏は日本の言語空間に「自由」はないと痛烈に結んでいる。


私はこの話(韓国の女性の小学校長のご主人が沖縄の特攻隊員として戦死した。そのご主人は特攻が決まると出身小学校を訪れ、校庭に桜の木を植えた。成長した桜の木がある小学校に奇しくも彼女は赴任した。さびしいときはこの桜の木の下に立つと心が休まる、という話)を聞いて、日本人に知って貰いたいと思って、ソウルにいる日本の新聞記者にそれとなく知らせました。A新聞の記者が、早速、その女性校長を取材しました。校長は記者を桜の下に案内しました。すると記者は
「日本の軍国主義がご主人をだまして申し訳ないことをしました」
と言ったのです。いつも謙虚な校長でしたが「だました」という言葉に激怒しました。
「私の主人はだまされるような人ではありません。自分の意志で出撃したのです。だまされたというのは、人間に対する侮辱です。取材はお断りです」と。
   「日韓2000年の真実」名越二荒之助 編著


人生は必ずしも思うようになるとは限らない。
(映画 ローマの休日より)


十二月八日
タイ王国元首相 ククリット・プラモード

日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日をわすれてはならない。

ククリット・プラモード氏は、一九一一年(明治四十四年)にタイ王国の名門の家に生まれ、英国オックスフォード大学に留学、帰国後は新聞記者として同国で最も権威ある「サイヤム・ラット」紙の主幹を務め、一九五五年(昭和三十年)六月に元タイ駐屯軍司令官であった中村明人陸軍中将がタイ王国に国賓待遇で招待された時、同紙に発表した記事が先の文書である。
その後、一九七三年(昭和四十八年)には社会行動党の党首として首相になっている。
(名越二荒之助編『世界に開かれた昭和の戦争記念館 第四巻・大東亜戦争その後』展転社発行を参考。遊就館にて販売中)

以上、平成十四年十二月 靖国神社拝殿・社頭掲示より


320 名前:擬古侍 ◆Nippon/qXw 投稿日:02/12/14 22:06 8wy0Dorw
■靖国代替施設建設に絶対反対■
さらに、靖国神社は第二次大戦直後、あわや消滅の運命にあった。敗戦直後、日本に進駐した連合国軍の大勢は、「靖国焼却すべし」という意見で占められていたからだ。

≪「靖国」の危機救った独人≫

 その険悪ムードのさなか、当時駐日ローマ法王代表バチカン公使代理だったピッテル神父が、占領統治の最高司令官マッカーサーに、「いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して敬意をはらう権利と義務がある。もし靖国神社を焼き払うとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。我々は、国家のために死んだ者は、全て靖国神社にその霊をまつられるべきとする」と強く進言した。

 ちなみに、この進言で靖国神社の危機を救った神父は、ドイツ人である。彼は第一次世界大戦の勇士で陸軍中尉、敗戦後聖職の道を選び昭和九年から日本に滞在していた知日家。日本と同様第二次大戦において祖国が敗戦の憂き目に遭ったなか、敗戦国の国民である前に、神に仕える謙虚な一人の人間として、勝者に向かい毅然(きぜん)としてこのような勇気ある発言を行い靖国神社を救った。本来ならその恩義に報い、手篤(あつ)く靖国神社を遇するのが日本人としての義務であり筋道ではなかろうか。


産経新聞のわが「正論」
「靖国代替施設」は要らない
「懇談会」の議論を白紙に戻してやり直せ
  (産経新聞平成14年8月13日掲載より転載)
≪アイデンティティを否定≫
 昨年十二月に福田康夫官房長官の下に設置された「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」において、国立戦没者追悼施設の新設構想が検討されつつあるという。私はあたかも日本のアイデンティティを否定し、その根幹を揺るがしかねないこの構想には反対である。懇談会に名を連ね真剣に討議を重ねておられる有識者に水を差すようで誠に申し訳ないが、全(すべ)て白紙に戻し、施設が必要か不要かの論議からやり直すべきである。
 恐らく、この構想は昨年来の小泉総理による前倒し靖国参拝騒動が尾を引き、日本政府としては大事をとって靖国神社に代わる施設を作ることで、今も戦前の対中政策に拘泥し、日本を責めるに急な中国や執拗(しつよう)な反日政策を展開する韓国の圧力をかわし、なだめにかかろうとしたに違いない。だが日本はれっきとした独立国であり、従って追悼の主役は日本国民であることを忘れてはならない。
 その日本国民が、何ゆえに中韓両国にのみ気がねしてこのような施設を作る必要があるのか。何よりも彼らの圧力に屈して作った追悼施設と知ったなら、一体どこの国の人間が心から参拝する気になるだろうか。それでなくても米国防総省内の一部には「靖国神社に参拝せず、自国の戦没者に敬意も払わない日本の首相の言うことなど信用できない。本気で国を守ろうと思っているならば、戦没者追悼を軽視するはずがない」と断言する者もあると聞く。
そのためにも日本は断じて一部の国の圧力に屈し、空虚な追悼施設を作ったという印象を世界に与えてはならない。

≪「靖国の霊」に無礼千万≫
 靖国神社は明治天皇の勅命で近代日本の夜明けとなった明治維新前後、国のために命を捧(ささ)げた人たちの霊を慰めるべく一八六九年に建立された。以後実に一三三年もの間、戦没者追悼の象徴としてその中心的役割を果たしてきた。その歴史と伝統をないがしろにした薄っぺらな追悼施設建設では、日本人自ら日本の歴史を汚し、誇りを捨てたことになる。

 第一、明治維新このかた第二次大戦に至るまで、国家の存命を念じて戦い、尊い命を落とし靖国神社に祀(まつ) られてきた死者に対し無礼千万である。


「昭和20年8月15日まで日本は自己責任をもつ国家だった。自分で考え、自分で判断し、自分で戦争し、そして自分で敗れた国でした。このように自分自身をもつということ、こういう国にもう一度立ち還らなくてはなりません。」


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